page52:Wish a Merry Christmas
マジパンのサンタの顔が、ろうそくの熱で溶け始めている。子どもの頃から変わらない、シンプルな顔を描かれたパステルカラーのサンタ。
ウィーウィッシュアメリクリスマス、ウィーウィッシュアメリクリスマス。わざとなのかというくらい調子はずれの音程で慧介が歌うのを聴きながら、スマートフォンのカメラレンズを小さなデコレーションケーキに向ける。
かしゃっ。
本物のカメラのシャッターの疑似音がして、付き合い始めの頃に並んで写真を撮った記憶が蘇りそうになった。それが完全な形をとる前に、わたしは奥歯を噛んでナイフを握る。
サンタをいったん小皿によけて、ケーキにナイフを入れようとしたら、慧介が横に回ってきて手を添えた。
「ケーキ入刀!」
自分が真顔になるのがわかった。いや、もともと真顔だったのかもしれない。
「新郎新婦、初めての共同作業です! って古いか。いや、うちの両親の結婚式のビデオにさ、まさにそのベタな司会が」
「慧介」
喉の奥から絞りだした声は震えていた。慧介の顔からすっと笑みが消える。
重ねられた手が離れるのを確認して、先端に生クリームの付着したナイフを小皿の上にそっと横たえた。
「長野に帰る話なんだけどさ」
「今?」
恋人の顔に悲しみの色が現れるのを、わたしは見た。
「今しちゃうの? その話」
「……ごめんなさ」
「今別れ話なんかされたら、俺一生クリスマスケーキ食べられなくなっちゃうじゃん。クリスマス嫌いになっちゃうじゃん」
子どものように言い募る慧介の顔を直視できなくて、わたしはうつむく。磨きこんだテーブルに、歪んだ自分の影が映っている。
「わかってましたよ。どうせ里瀬は俺のことなんて真剣に考えてくれないんだって。最近ずっとぶすっとしてるし、心ここにあらずって顔してるし」
「いやあの」
「こっちが
あーっ! 突然叫んだかと思うと椅子を蹴るように立ち上がり、慧介はソファにばふんとうつ伏せで倒れこんだ。ふざんけんなよ、というくぐもった声がソファの布地を通して聞こえた。
「どうしてくれるんだよ。東京あたりでイケてる嫁つかまえて連れて帰るって俺、約束しちゃったじゃんか親に。指輪だって買ったのに。俺の人生設計めちゃくちゃにする気かよ」
後半から声の調子がぐずぐずになってきて、彼が泣いているのだということに遅れて気がついた。
「真剣じゃないなら最初から付き合うなよ、最初から一緒に住んだりするなよ、なんなんだよ」
「あのさ、慧介は」
うつ伏せて肩を震わせている恋人が、みるみる他人になってゆく。
「あたしを……あたしのこと、ほんとに好きだった?」
ぐすん。ぐすん。洟をすする音だけが聞こえた。
わずかな静寂のあと、うおーんおんおん、という吠えるような泣き声だけが返ってきた。それが回答だった。
久しぶりの実家は麵つゆのにおいがした。今夜は母の肉じゃがだ。
「おまえはな、もうちょっと落ち着け」
居間で父に説教されている間、壁にかけられているドライフラワーを見つめていた。母が趣味で作った、スターチスのドライフラワー。
「まだ26ったって、もう26でもあるんだから」
「はい」
「いくらコロナで人恋しいからっておまえ、よく見定めろ。出会ってすぐ結婚とか言いだすやつはちょっとおかしいに決まってるだろ」
「……はい」
お父さんだって彼のこと気に入ってたくせに。心の中で舌を出す。
「今度久々に山でも行くか。山はいいぞ、心が空っぽになる」
「そうですね……」
姉ちゃーん、と階段の上から譲治の呼ぶ声がした。
引越し荷物の移動はほとんど譲治がやってくれた。本当にこれが最後だというのに、慧介は自宅の鍵だけわたしに預けたきり姿を見せなかった。買ったという指輪が実在するのかどうかすら確かめようがなかった。もう、それでよかった。
「配置これでいいかちょっと見てー」
「あ、はーい」
立ち上がり、まだ言い足りなそうな父に背を向けた。麵つゆのにおいは廊下にまで広がっていた。
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