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 大事な話があるんだけどさ。

 ひそかにずっと待っていたはずのその言葉は、ときめきよりもうっすらとした恐怖心をもたらした。そんな自分に自分でびっくりしていた。

「え、なに?」

 聞いてしまっていいのだろうか。自分に覚悟があるのかわからないまま、背後から声をかけてきた慧介にたずねる。ゆすいだ食器を水切りかごに伏せるわたしを手伝うでもなく、彼はポケットに手を突っこんだまま見ていた。

「いや、どうしようかな、クリスマスにしよっかな」

「そう」

 聞きたい、聞かせて、とねだられることを想定していたのだろう。えっ、と小さく息を呑む気配がした。わたしは構わず食器をゆすぎ続けた。気づけば家事のほとんどをわたしが担当している気がする。

「や、まあ、実は長野に戻る話が出ててさ」

 さすがに驚いて水道を止めた。期待通りの反応だったのか、慧介が頬を緩ませる。わたしが誕生日に贈ったラベンダー色のトレーナーの胸が筋肉で隆起しているのを、意味なくじっと見つめた。

「へへ、プロポーズかと思った? ま、実質そんな感じなんだけどさ」

「いや、えっ、長野って」

 もはやこの人に繊細な感情の理解を期待するのは諦めている。わたしは彼に向き直り、シンクに軽く腰を預けた。

「実は前からちらちら聞かされてたんだけどさ。東京本社で3年修行したら最初の配属先に戻るのがセオリーなんだよ、うちの会社。だから同棲するとき新たに部屋借りなかったんだよね。実家にもまだ俺の部屋あるしさ」

「いつ?」

「え、転勤? まあまだ先だよ、新年度からの話」

「……そう」

「里瀬さ、長野で新婚生活送るのはやだ?」

 慧介は芝居じみた仕草で水で濡れたままのわたしの手をとった。水滴の散った床に、うやうやしくひざまずいてみせる。

 もちろん、結婚を前提に同棲に合意したからこそ、今の生活とふたりの関係がある。でも、居住地を変えて彼の地元についていってまで、わたしは慧介と一緒にいたいだろうか。それとも、環境が変われば出会った頃のみずみずしい気持ちが戻ってくるだろうか。めまぐるしく思考を回転させても、その場で答えが出そうになかった。

「ありがとう、急だったからびっくりしちゃった。ちょっとだけ考えるね」

 引きつった笑顔でそう答えるのが精いっぱいだった。

 シンクに向き直るわたしを、慧介は見慣れない深海魚でも目にしたような顔で見ていた。


 じじっ。

 小さな振動で、浅い眠りから醒めた。慧介はシングルベッドの隣で健康的な寝息をたてている。

 サイドテーブルに置いてある慧介のスマートフォンが、闇の中で光を放っている。その傍らにある自分のスマホが従順なしもべのように見えた。

 ほとんど何も考えずに、わたしは慧介のスマホを手にしていた。

 浮気はしていない。それだけは確信している。なのに、不思議に胸がざわめいていた。

 Twitterのバナー通知の青は、カクヨムのそれとよく似ている。もう50回くらい思ったことをわたしは思った。時刻は01:37。

『クソリプやめてください。あなたに私の何がわかるんですか? はっきり言って気持ち悪いです』

 ぎょっとした。慧介あてのリプライだとすぐにわかったけれど、頭が追いつかない。わたしが文面を読んだのを確認したかのように、バナーはスッと引っこんだ。

 慧介が深く眠っているのを確認し、わたしは自分のスマホを引き寄せて枕の上でモニタ電源を入れた。心臓がばくばくしていた。


 慧介のアカウントは知っている。筋トレ系のユーザーをフォローして意識を高め合っているのだと、付き合い初めの頃あっけらかんと教えてくれた。ほとんど筋肉と体力づくりのことしかつぶやいていないそのアカウントにそれほど興味を惹かれることはなく、自分のカクヨムアカウントを教えることもないままだった。

 久しく開いていなかったTwitterを立ち上げ、慧介のアカウント「こもたん@プロテイン」を探す。個人情報も気にせずに、プロテインシェイカーを手に笑う自分の顔をアイコンにしている。わたしの知らない、今よりちょっと若くて茶髪の慧介。

 トップページから「ツイートと返信」をたどって、血の気が引くのを感じた。


『まだ筋肉も育っていないのにホエイプロテインですか?(苦笑) 味よりも成分や効果で選んだ方がいいですよ?』

『あーwww それ初心者がやりがちなんですが、ファスティングした後に食べたものを体は脂肪として蓄えちゃうんですよ。燃料をセーブしちゃって逆に代謝が落ちて太るんです。絶対やめた方がいいですよ(笑)』

『合格! あ〜でも牛乳を豆乳にしたら完璧だったかなw 牛乳ってそもそも子牛を成長させるためのもんだからね(笑)人間が飲んだら肥え過ぎるのは自明www』

『糖質ってカットしすぎもよくないですよ! 最低でもご飯はひと口でも食べましょう。要は車にとってのガソリンです(車の絵文字)ガソリンがなければ車は走れないでしょ?w』


 一方的にダイエットの知識を披露し考えを押しつけるリプライの数々に、頭がくらくらしてきた。清々しいほど余計なお世話だし、"(笑)"の箇所もひとつも笑えない。彼のアドバイスは、いずれも女性と思われるユーザーのツイートにばかりぶら下げられている。

 先程の「クソリプやめてください」のユーザーは、南国の花を耳に差した女性の後頭部の写真をアイコンにしていた。「どうしていつも専門家ぶって絡んでくるんですか? 自己流のダイエットしちゃいけないんですか?」とリプライを続けている。画面からあふれんばかりの怒りが今まさにリアルタイムで書きこまれ、少し遅れて、じじっ、とまた慧介のスマホが鳴った。

 モニタ電源を落とすと、暗闇がもとの濃度に戻った。

 目を閉じても瞼の裏に醜悪な言葉の数々が浮かんでは消え、心臓は不穏なリズムで鳴り続け、眠りはなかなか訪れてくれなかった。

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