page50:荒川沿いを
「自覚あるよね」
クリスマスの近づいた寒い夜、恋人は腰に手をあてて
埼玉に戻ってきて久しぶりの冬ということもあるけれど、今年は本当に寒さが厳しい。さっき1℃上げたばかりのエアコンの設定温度をさらに上げようか迷う寒さの中で、しかし恋人の説教が始まろうとしている。わたしは冷えた指先を擦り合わせた。
「なにが?」
「最近また太ってきたでしょ。ってか最近まじめに筋トレやってないでしょ」
内心ぎくりとしたことがばれただろうか。
ふたりで黙々と筋トレを続ける夜の時間がつらくなってきて、今日は頭が痛い、今日は雨月とZOOMするから、などと理由をつけて逃げるようになってきた。一度サボると、翌日はさらにやる気がなくなる。
それどころか、慧介に隠れてジャンキーなものをこそこそ食べる習慣ができた。ポテトチップスやチョコレート菓子の袋が空になるたび、プラごみ用のごみ箱の底のほうへぎゅうっと押しこんだ。どうせごみの日にごみをまとめるのはわたしなので、慧介が気づくことはない。体重は最良の数字より2.1kg増えた。
「ごめん、今日はやる」
自分の体のことでなぜ誰かに謝らなければならないのか理解できないまま、わたしは小さく頭を下げた。
それでも慧介の眉間には皺が寄ったままだった。しばしの沈黙ののち彼はすっと顎を上げ、「走ろう」と決然と言い放った。
川からの風が頬に染み入る。冷たい、と思わず声に出た。鼻先も頬も冷えている。
「はい、もたもたしない。いち、に、いち、に」
慧介の声に合わせて脚を動かすたび、量販店で買ったウェアが擦れてかさかさ鳴った。
有酸素運動が足りてないんだ、里瀬は。そう言って慧介はわたしを荒川の河川敷に連れてきた。
「いち、に、いち、に」
ロードバイクで走る人たちと犬の散歩の人たちくらいしかいない河川敷で、メタリックなトレーニングウェアを着て走るわたしたちはひどく目立った。15時ともなると日はだいぶ傾いて、寒さとみじめさがいっそう増す気がした。
わたしは今なにを、なんのためにやっているのだろう?
「大丈夫? なんか若干しおれてるように見えますぞ」
久々に会った友は思ったよりも元気そうで、逆にわたしのほうが心配された。
脱毛はだいぶ減ってきたそうだけれど、わたしの贈った帽子をまったく脱がないので実際の頭部の状況はわからない。こちらに気を遣わせないためかもしれないと思うと胸が痛んだ。ヘアドネーションに送るために31cm以上伸ばすと言っていた彼女の豊かな長い髪は、たしかに以前に比べたらボリュームが減っているような気がする。
「デルタって単語、もう一生聞きたくない」と自分の肩を大げさに抱いて語るものの、その台詞はどこか用意してきたもののようにも感じられた。きっと周囲に対して何度も同じ言い回しをしてきたのだろう。
コロナが落ち着いているうちに会おう。その約束が果たされたのは、川沿いを走った翌週のことだった。Instagramで見てずっと行きたかったカフェは写真の印象ほどはぴかぴかでもおしゃれでもなくて、でも体重をそっと受け止めてくれる藍色のソファの座り心地はすてきだった。
「しおれてるわけじゃないけど……」
「カクヨム読んでるよ。相変わらず読みやすいですな、里瀬殿の文章は。うちのライター陣に読ませたいよ」
「ありがとう……」
「でもちっとも幸せそうじゃないのは、これいかに」
「雨月」
カプチーノの泡がへばりついたまま固まりつつあるマグカップの淵をそっとなぞりながら、わたしは友の目を見ずにたずねた。
「あたしって、今より痩せたほういいかな。痩せなきゃいけないかな」
「え? さっきも言ったけど、里瀬めっちゃ痩せたじゃん」
「うん……でも、慧介に言わせればまだまだデブなんだって。こないだ荒川の河川敷走らされた」
「嘘」
「『はい、もたもたすんな、走れ! いち、に、いち、に』っつって」
「ウケる」
慧介の口調を若干誇張して真似すると、雨月は首をのけぞらせてからからと笑った。その白い首筋にわたしは一瞬見惚れる。視界の隅で、奥の席に座っているカップルの女性のほうだけがちらちらとこちらを見ている。
「……や、異常だよ、異常。恋人くん」
ひとしきり笑って目尻を拭ってから、雨月はようやくまじめな顔になった。
「標準体型からさらに痩せる必要があるのかな。いやないっしょ。奇形恐怖症とかあるのかな。シンプルにルッキズムかな」
「……」
どっちも嫌だ、と思った。
韓国料理店でのことを話そうかと思い、留まった。そこまで他人に話してしまったら、あの感情を自分の言葉に乗せてしまったら、何か取り返しのつかないことになるような気がした。わたしと慧介の未来が。
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