page49:チートデイ
ずいぶんと遠慮がなくなってきたな。2種類のプロテインが並んでいるキッチンで、わたしはぼんやりと思う。
小さな窓から西日が射して、部屋をオレンジ色に染める。夕食を作らなきゃな、と思うのに体が動かない。
たしかに慧介はいい体をしている。普通の会社員とは思えないほど胸筋も腹筋も美しく割れており、顎から肩にかけてのラインにももたつきがない。己を律していることがひと目でわかる体だ。
けれど、それを基準に他人を評価するのはいかがなものだろうか。行為のあとでわたしの腹肉をつまみ「この辺、もうちょい頑張らないとね」などと求めてもいないコメントを投げてこられると、いったいどんな目線でわたしを抱いていたのかと不安になってしまう。
「実は付き合い始めの頃、ちょっと無理してたんだよね~。いろんな意味で」
そう言われてしまったら、前みたいにもっと外食したいなんて言えない。食事はたんぱく質が摂れる食材メインのローカロリーなものばかりになってきた。初めて訪れたときから慧介の小さな冷蔵庫には茹で鶏と茹で卵が常備されていて、それを用意するのはすぐにわたしの仕事になった。付け合わせはほうれん草かブロッコリー、あるいはその両方に大豆を合わせたサラダ。ドレッシングも手作りする。酢を多めに入れるのがポイントだ。
そして、毎晩欠かさず一緒に筋トレとストレッチをする。交代でエアロバイクも漕ぐ。少し年季の入ったエアロバイクは、内部機構になにか問題があるのか、長時間漕ぎ続けるとかしゃんかしゃんと異音がした。
「里瀬、そんなにちょいちょい休憩してたら効果なくなるよ。どんなに遅くとも3分以内に次の動き開始しないと筋肉冷えちゃうよ?」
「柚子茶好きなのは知ってるけどさ、今飲んでるやつ使いきったらしばらくやめようね。糖分摂ったら脂肪燃えないよ? 脂肪より糖のほうが先に燃焼するんだから」
いつもきまって、そこから彼の筋肉談議が始まる。同じ話が同じ言い回しで繰り返し繰り返し披露される。
最初のころは「はいっ、コーチ!」とおもしろおかしく応答していたけれど、最近はそんな気力もない。わたしは今標準体重から1kgも出ていないのだし、自分の体が誰かの管理下に置かれているようでむずむずした気持ちになる。
けれど、その違和感をうまく言い表す言葉を持ち合わせていなかった。
ある日、パステルカラーのチープなダンベル(水を入れて使うタイプだ)が置かれているなと思ったら「百均で買ったんだ。プレゼント」と言われて驚いた。
「え、あたしがダンベルやるの?」
「じゃなきゃ誰が使うの?」
俺にはあれがあるし、と指差す先には、彼の愛用の鉄アレイがしまいこまれた収納ボックスがある。
「マッチョを目指す必要はないけどさ、結婚式のとき着れるドレスは選択肢があったほうがいいじゃない?」
どうしてまた、そうやって大事なことを生活の中でさらっと口にしてしまうのだろう。
わたしの戸惑いをよそに、慧介は照れ隠しのようにわたしの頭を乱暴に引き寄せ、そのまま床に押し倒した。
自分の言葉に自分で盛り上がってしまうタイプなんだな。
律動する恋人の肩越しに、白い天井をじっと見つめていた。
なんだかんだで、わたしも筋肉量が増えてきたようだ。代謝が上がり、少し多めに食べても翌日に響かなくなってきた。
二の腕や腹筋が少し硬くなってきたな。ちょっといい感じ。そう思っていたら、今度は体重がまったく落ちない日が続き、焦りを覚えた。腰回りの肉がもたついているのがわかり、落ち着かない。
「よし、そしたら今日はチートデイにしたらいいよ。日曜だし」
「チートデイ?」
「カロリーを気にせずに好きなもの食べる日を設けるんだよ。減量が停滞してきたっていうのは、体が消費を抑えてるからなんだよ。正しいタイミングでどーんと食べればまた代謝上がってくるから、心配しなくていいよ」
「そうなんだ……」
「俺も今日はひと休みしてがっつり食うかな~」
久しぶりに肩を並べて東京都心へ出た。久しぶりに高揚してきた。
12月の街はクリスマスムード一色だ。これが一夜にして正月商戦に切り替えられる25日の夜を思う。学生時代、デパートでアルバイトしていた友人がよく話を聞かせてくれた。
ラーメンか焼肉かエスニックか。日曜の夜の街を練り歩く。
さんざん迷って韓国料理店に足を踏み入れた。「最初から新大久保にすればよかったじゃん」と慧介がぶつぶつ言うのを聞きながら、香辛料の香りを控えめに胸に吸いこむ。自動体温測定器がピッと鳴って「正常な体温です」と告げる。ペダルを踏んでアルコールを手のひらに噴霧し、よく擦りこませた。
「キムチのカプサイシンは脂肪を燃焼してくれるからね」
なんだかんだで結局ダイエットのことが頭を離れることはない。それがおかしくてわたしたちはくすくす笑った。
「チートデイってお酒も飲んでいいの?」
「筋トレとアルコールは相性最悪だけど、いいよ、今日はなんでもありにしよう。そのために電車で来たんじゃん」
「わーい、マッコリ飲んじゃおうマッコリ」
慧介はサンチュでチャプチェをくるみ、器用に口に運んだ。サムギョプサルは店員さんが肉切り鋏でぱちんぱちんと切ってくれた。
マッコリのとろりとした甘さが舌にやさしく溶けてゆく。脳の端っこがかすかに痺れる感じが心地よい。思えばずいぶん長く禁酒していた気がする。
少しずつ客足が増え、店内には知らないK-POPが響いている。
「サムギョプサルとチーズダッカルビと両方食べるのはやりすぎだったかな」
「いいのいいの。里瀬、いつも頑張ってるんだし。ってかさ」
マッコリで満たしたアルマイトの器を持ったまま、慧介が向かいからぐっと顔を寄せてきた。
「店員が韓国人だとさ、一瞬びくっとなるよね」
意味するところが本気でわからなかった。
「なんで?」
「へ?」
「なんでびくっとなるの?」
「なんでって……だから」
「韓国料理店なんだから韓国の人が働いてるのあたりまえじゃない?」
「けどさ、ほらさ、やっぱり日本人のほうがさ、ね?」
細かいニュアンスわかってよ~、と慧介はわたしの腕を伸ばして肩を軽く押した。その軽薄な笑顔に、酔いが急速に醒めてゆくのを感じた。そういえばさっきも店員さんの「マタセシマシター」という言葉を真似して笑っていなかったか。
「慧介……なんか他人を下に見てない?」
「どしたの里瀬、目が
「日本で働いてるアジアの人ってさ、だいたいみんな母国語のほかに英語も日本語も喋れるんだよ、トライリンガルなんだよ、超優秀なんだよ」
わたしたちなんかよりずっと。かろうじてその言葉を飲みこんだ。
「……でも片言じゃん」
「なら笑ってもいいの? 自分は英語もろくに喋れないのに?」
「あ?」
腹の深いところから発せられたような「あ?」だった。この会話を終わらせるためにだけ、「ごめん、もういい」とわたしはつぶやいた。
その後は互いの目も見ずに黙ってマッコリをすすった。
帰り道もずっと無言だった。
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