page48:合格
「合格」
それが恋人の口癖だと気づいた。
わたしがアウトドア好きだと知って「合格」。
わたしが作った料理を食べて「合格」。
わたしの新しい服を見て「合格」。
されたくもないのにジャッジされているようで、言われるたびにかすかな違和感を覚えた。ほんのわずか、胸の奥がざらざらする。
けれど、高評価であるならそれで構わないような気もした。不合格とか失格とか言われたわけではないのだから。合格、なのだから。
ただ、カクヨムで私小説を書いていることは内緒にしたほうがいいと直感が告げていた。
不穏な事件や地震が頻発し、しかし新型コロナウィルスは落ち着いていた。県内の1日の陽性はもはや1桁だ。それは喜ばしいけれど、街ゆく人も結構な割合でノーマスクになってきて、それはそれで心配になった。
そんな折にオミクロン株という新たな変異株が南アフリカのほうから入ってきた。あっというまに、日本にも。
「なんか、めんどくね? もう一緒に住んじゃおっか」
ニュースを報じるテレビに視線を固定したまま、慧介がぼそりと言った。
「え」
「いちいち感染気にしながら移動するの、めんどくね? 里瀬の仕事ってどこでもできるやつでしょ。それにどうせ結婚したらやめるっしょ。だったらもう生計を共にしちゃったほうが早くね?」
とっさにリアクションができなかった。嬉しさと戸惑いが等分に湧きあがったから。
「あ、めんどいから同棲しよってのも違うよね」
慧介はようやくわたしに全身で向き直り、並んだソファの上で頭を下げた。思考をフル回転させても目の前の状況に追いつけない。
「俺と、結婚を前提に一緒に暮らしてください」
YESしか想定していない言葉だ、と思った。
──でも。
この人はわたしを心から求めてくれている。不要不急なんかじゃない。今までの恋とは違う。
艶やかな黒髪をたたえた恋人の後頭部に向かって、はい、とわたしは小さく返事をした。彼は顔を上げて、合格、と笑った。
引越しの日は、今にも雨粒の落ちてきそうな曇り空が広がっていた。
「あーあー、また片付け当番回ってくる頻度が上がるのかー」
部屋から荷物を運び出しながらぶつぶつ言っている譲治に「そこかよ」と突っこみながら、こめかみの汗を拭う。
実家の自分の部屋は残しておくし、大型家電や家具を移動させる必要はほぼないため、ワゴン車を1台レンタルして2往復するだけで引越し作業としてはほぼ終わってしまった。その手配も運転も、慧介が担当した。相変わらず、如才なくうちの家族に笑顔と気の利いた言葉を振りまきながら。
「出会って1か月半でお嫁入りかー」
母がにやにやしながら言う。違うってば、お嫁入りって、と反発しながら、マスクの下で頬が紅潮した。これから毎晩セックスしようねとささやかれた昨夜のことを、親の前で思いだしてしまう自分に困惑する。
「それでは、里瀬さんは僕が責任を持ってお守りしますので」
いかにも母の好みそうなせりふを口にして、慧介は深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「ふつつかな姉ですが」
玄関先で見送ってくれる父も母も譲治も、一緒に頭を下げる。
「正式な、ほら、あの、予定とか決まったら教えてね」
母が慧介に顔を近づけ、ちゃっかりそんなことをささやいている。ええもちろん、と淀みなく答える恋人の口調は何の迷いも感じさせない。
なんだか本当に前時代的な「お嫁入り」のようで、せつないような、自分が物として扱われているような、形容できない気持ちになった。
曇天の下、両親と弟の姿がみるみる小さくなってゆくのをドアミラーからいつまでも見つめていた。雨の最初のひとしずくが、ぽつりとガラスを打った。
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