page47:恋とプロテイン

 電車の乗客が人を刺したり放火したりする事件が続き、世の中を震撼させた。南浦和で刃物を持った人物が現れ京浜東北線が緊急停止したときは、普段さほど関わりのない友人からも安否を問う連絡があった。

 首都圏の電車内の治安が悪化している。そう思ったら、九州新幹線でも模倣犯が現れた。この国は、日本人は、どうなってしまったのだろう。

「よかったねえ里瀬、電車乗らなくていい仕事で。慧介くんも守ってくれるし」

「うん……」

 母にしみじみと言われて、わたしは曖昧に笑う。正直なところ、仕事は最近だるくなり始めていた。それに慧介にだって生活や仕事があり、いつもぴったりと傍にいるわけじゃない。彼はわたしのガードマンじゃない。

「いっそ、もう一緒に住んじゃえば? あたしたちに遠慮しないでラブラブできるしねえ、ははは」

「ちょっ、何それ……」

 女性の25歳は売れ残りと言われた時代に執念で24歳の終わりに結婚した母は、わたしを早めに嫁がせたがっている。それを肌で感じるようになってきて、少し疲れていた。

 たしかに慧介とは何もかもうまくいっているけれど、先のことは自分で決めたい。親に言われたから同棲、親に言われたから結婚、そんなのは嫌だった。


 11月半ばの深夜、また地震があった。

 スポーツジムは夜のシフトが多いため、その頃には仕事帰りの慧介を部屋で待たせてもらって一緒に朝を迎えるサイクルができあがっていた。

「わ、震源地、秦野はだのだって」

 セックスの甘い倦怠感がわだかまる体を起こし、スマホで検索した。

「ハダノって……神奈川だっけ」

 半分寝ぼけたままの慧介は、両手両足をわたしにしっかり絡めた。

「そう。鍋割山なべわりやま付近かあ。ほら丹沢だよ、お父さん慧介と丹沢に登りにいきたいって言ってたじゃない」

「そうだっけ」

「行ったなあ鍋割山、サークルで」

「サークル? ああ、ワンダーフォーゲル」

「うん、ワンゲルで。山頂に鍋焼きうどんの店があってね、湘南の海岸線を見下ろしながらみんなで食べるの。最高なんだあ」

「……ふーん」

 闇の中、恋人の目が開かれるのがわかった。

「そのときって、オトコいた?」

「え」

 とっさにリアクションができなかった。北見くんの顔が脳裏に現れたのを見透かされたような気がした。

「……ふーん、いたんだ」

「やだ、ちょっと、慧介」

「ふーん、ふーん」

「昔の話だよ。……んっ」

 唇をふさがれる。ほとんど前戯もせずに、慧介はわたしの中に入ってきた。

 ちょっとだけ痛くて、痺れるくらい気持ちよくて、信じられないくらい幸せだった。


 プラスチックのシェイカーに、豆乳を200ml注ぐ。そこに擦りきり3杯の粉末を入れてきっちりと蓋を閉め、勢いよく振った。ココア味のどろりとした液体ができあがるまでの、この手順が意外に好きかもしれないと自覚する。

 慧介のすすめでプロテインを飲むようになってから、体が少し変わり始めた。代謝がよくなり、体重の減りが早い。以前も何の知識もないままプロテインを飲んでいたことがあったけれど、逆に体重が増えて嫌になり、引越しのときの断捨離で捨ててしまった。

「それ、もしかしてホエイプロテイン飲んでたんじゃない?」

「え、種類があるの?」

「あるよ。まだ筋肉が育ってないのにホエイ飲んでも意味ないよ。ダイエット初心者はまずソイ。ソイプロテインから始めないと」

「そうなんだ……全然知らずに飲んでた」

「飲むタイミングも重要だからね。筋トレ終わってクールダウンして、血液が胃に戻ってきたあたりで飲むのがベストだから」

「え、朝からシリアルにかけて食べたりしてた」

 だはっ、というような笑い声を立てて、慧介はわたしの頭を抱き寄せたのだった。里瀬はなんにも知らなくてかわいいなあ、と。

 そう、なんにも知らないわたし。経験不足、無知蒙昧。だけど、それだけじゃないつもりなんだけどなあ。うまく言えないけど。

 シェイカーの蓋を外し、どろどろの液体を胃に流しこむ。人工甘味料の甘さが舌に残った。

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