page46:まっとうな恋人

 指先が、かすかに触れる。

 刹那せつなのためらいののちに、指たちは指たちに絡めとられる。空気が揺れて、隣を歩く人が照れ笑いしたのがわかった。

 思わず天を仰ぐ。神様。いいのですか、こんな僥倖。


 菰田こもだ慧介けいすけは、ひとつ年上の会社員だった。誰もが聞いたことのあるであろうPC機器メーカーの子会社だという。警察署を挟んでうちとほぼ対角線上に、彼のひとり暮らしのマンションはあった。出身は長野県だという。

 免許更新の帰り、警察署から少し歩いた場所にあるカフェでお茶をしたときから、わたしたちは気持ちを通わせた。

「こっちに転勤になって、長野の彼女としばらく遠恋してたんだけどさ。コロナのこともあって自然消滅」

 まるでどこかで聞いたようなエピソードに胸がちくちく痛んだ。

 健康おたくである彼の趣味は筋トレやスポーツジム通いなど健全なものばかりで、聞くかぎりプロフィールに後ろ暗いところはまるでなかった。元来アウトドア好きなわたしのことを彼もいたく気に入ってくれるのが、手に取るように伝わってきた。誕生日が近いとわかってまた盛り上がった。

 まっとうな男。まっとうな恋。この感覚はあまりにも久しぶりだった。


 うまく行くときは、とことんうまく行くものなのだ。今まで停滞していたことがまるで嘘のように、わたしは新しい恋のエッセンスを身に浴びた。運命の歯車が急速に回転し始めているような気がした。

 わたしの誕生日には、シティーホテルの最上階にあるレストランを予約してくれた。夜景はほとんど見えない席だったけれど、こうしたベタな接待を受けるのが久しぶりで、ただただ嬉しかった。

 コース料理の最後に出てきたドルチェの皿には、チョコレートで愛のメッセージが書かれていた。タピオカミルクティーで再就職を祝ってくれた森のことが脳裏をかすめて消えた。


 時間さえあれば逢い、デートを重ねた。毎回きっちりと自宅前まで送り届けてくれるので、すぐに家族に知れた。礼儀正しくにこやかに挨拶する慧介を母はいたく気に入った。

 その後我が家で食事会が企画された。実質慧介の品評会のようなものだったのでわたしは気を揉んだけれど、慧介は臆することもなく手土産を持ってやってきて如才なく振る舞った。ちょっと完璧すぎて何かのお手本のようだった。

「姉ちゃんどこで捕まえたの? あんな好青年」と譲治は手放しで褒め、父は「今度一緒に丹沢たんざわに登りに行こう」と相好を崩していた。

 雨月にも今度はちゃんと報告した。感染後しばらく休職していた雨月は、11月1日いっぴから職場復帰したらしい。わたしがプレゼントした帽子をかぶって。

『ナンパ、懲りたんじゃなかったの? 今度こそ大丈夫なんでしょうね?』

 心配する友人に自宅の食事会の写真を送ると、「お幸せに」と返事が届いた。


 あたたかな胸がゆっくり上下している。

 筋肉のはりつめた慧介の二の腕は、この世のしがらみからわたしを守ってくれるシールドみたいだ。ふと、泣きたいくらいの多幸感が押し寄せた。

「俺はさ、将来のことを見据えて付き合っていきたいと思ってるんだけどさ、里瀬はどうなの?」

 彼が照れながらそんなことを訊いてきたのは昨夜だった。慧介が探してくれたビストロからの帰り道、熱い目をして尋ねられた。

 胸をつまらせながら「わたしもだよ」と答えると、荒々しく引き寄せられ、深い深いキスをされた。そのまま彼のアパートに来て、日付が変わっても求め合っていた。

 至近距離で寝顔を見守っていると、ふにゃ、と子どものように寝ぼけた声が漏れた。絡まっていた脚の先に力がこもり、わたしの剥きだしの肩が撫でさすられた。

「冷えてる」

 大きな両手はわしゃわしゃと動き、やがて胸のほうに降りてくる。

「ここも」

「うん」

「ここも」

「うん……ちょっ」

「冷えは、よくない」

「……うん」

 体のあちこちを点検する指の動きに、わたしは目を閉じて身を任せた。

 冬の陽差しが、恋人の肩の上で踊っている。

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