page45:この辺なんですか
「嘘!?」
唇が震えた。
嘘じゃないとわかっていながら、どうして人はこう口走ってしまうのだろう。
「嘘でしょ!? なんで!? まじで!? いつから!? 大丈夫なの!?」
『疑問符が多いですぞ、里瀬殿』
電話の向こうでかすかな笑い声が聞こえた。ようやく少し彼女らしさに触れて安堵しつつも、どうして報せてくれなかったのだという不満が首をもたげた。
「つらかった? もう平気なの?」
『まあ、ほぼ完治したよ』
「『ほぼ』って……。ってかいつ発症したの?」
『8月に1回目のワクチン打ったあと』
詳細な説明が続くのかと思いきや、静寂が流れた。こんなときどんな言動が最適なのか、まるでわからなかった。
「教えてくれればよかったのに……」
『教えてたら何かしてくれた?』
雨月の声がまた尖った。さっきよりも固く、鋭く。
『里瀬、7月くらいからずっと連絡ないし、大学生かなんかと遊ぶのに夢中だったじゃない。無視されてる相手に窮状を訴えるなんてできないよ』
「それは……ごめん……」
『いくらあたしだってそんなに図太くないよ』
胸に突き刺さるような沈黙のあとで、後遺症で脱毛がひどくてさ、と雨月はぽそりとつぶやいた。
優良講習は眠かった。感染症対策として少人数ごとに案内された交通なんとかセンターの小部屋でビデオを観せられながら、マスクの下で何度も生あくびを噛み殺した。
週末の疲れが出たのかもしれない。川口の伯母に贈る食器と雨月のためのウィッグを求めて、商業施設をいくつも見て回った。リモートワークでなまった体を久々に酷使して、脚がふらふらになった。ワンダーフォーゲル部だったなんて自分でも信じられない。
食器は品のよいものを見つけられたけれど、ウィッグの値段は予算よりひとつ桁が多く、「ご本人様がいらっしゃらないとなんとも……」と店員にも苦笑いされてしまった。
寝不足も深刻だった。夜な夜な「コロナ」「脱毛」「後遺症」「回復」で検索し、ネットの海をさまよっていた。ひとつでも探したかった。雨月のためにできることを。
教官を務める警察官が部屋を出て行ってしまい、受講者だけが残されると、睡魔はますます襲いかかってきた。
「見通しの悪い交差点で……」「ほんの少しの気の緩みが……」断片的に耳に流れ込んでくるビデオの声が、夢の中で響き始める。
ばさりと音がして我に返った。配られた教本が膝から滑り落ちて床を打った音だった。
通路を挟んで向こう側に座っていた男性が腰を浮かせ、手を伸ばしてきた。
「あっすみ、すみませ……」
「大丈夫ですか」
ぼけぼけしているわたしよりも、彼の動きは早かった。教本を拾い上げ、片手でぱんと軽く払って手渡してくれる。
「ありがとうございます」
受け取って彼の顔を直視したとき、眠気が一瞬で吹き飛んだ。
マスクの上の大きな両目、やりすぎない程度に整えられた髪、服の上からもわかる上腕筋、ほのかに香る香水。
「眠いっすよね」
いたずらっぽく微笑みながら、ざらっとした心地よい声で男性はささやいた。
思いがけない引力が発生していることと、それを見抜かれていることに、わたしは気がついた。
ばたんと急に扉が開き、教官が入室してきた。怪訝な顔でこちらを見る。男性は急いで着席した。
のしのしとテレビの方へ進む教官の背中を見ながら、わたしたちはそっと忍び笑いを漏らした。共犯の笑いだった。
免許証の郵送手続きを済ませ、県道に出た。
少し先を、さっきの彼が歩いている。長身というほどでもないけれど、ジーンズに包まれた脚は長い。追いつきたいような、追いついちゃいけないような気がした。
ゆるゆると歩みを進めていると、県道の横断歩道で立ち止まっている彼にとうとう追いついてしまった。まずい。いや、まずくない。
赤信号が青に変わった次の瞬間、彼が振り向いた。思わず肩がびくりとなる。
「家、この辺なんですか?」
人懐っこい顔と声音で言われて、わたしの胸は甘やかにときめく。思わず住所を途中まで告げると、「めっちゃ個人情報」とまた笑った。
「この辺でお茶飲めるとこ知りません?」
──ああ。
どうやらわたし、また恋につかまってしまった。
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