page43:髪を切る

 他人の耳の中を拭くって、どんな感じなんだろう。

 シャワーの飛沫をタオルの起毛が吸い取ってゆく。タオル越しに美容師の指の形を感じる。

 やがて「お疲れ様でしたあ」という声と共に顔に乗せられていたガーゼがめくり取られ、あえて配管を剥き出しにしたデザインの壁や天井が目に飛びこんでくる。


 COVID-19のデルタ株は、恐るべき勢いで感染者を増やし続けた。関東のみならず、大阪や愛知でも1日で確認された陽性反応が4桁の大台に乗った。緊急事態宣言が延長され、メディアはたびたび医療崩壊の現場の状況を報じた。そんな中でも開催された音楽フェスに、世間は白い目を向けた。

 一方で、ワクチンが行き渡り始めた。9月にはようやく二十代の自分たちにも接種券が届いた。どさくさに紛れるように総裁選が行われて首相が交代した。秋の深まる頃には感染者数ががくんと減り、緊急事態宣言が解除されてもその水準は悪化しなかった。

 ずいぶんと待たされたワクチン接種券が届く頃、わたしはリモートワークにもすっかり慣れていた。手取りが思ったより少ないこととchatworkをこまめにチェックしないとならないこと、運動不足で再び太り始めたことを除いては、さしたる問題はなかった。

 家族しか会う人がいないと、どうしても身なりに構わなくなってくる。

 久しぶりに姿見に映した自分に愕然としていたら、運転免許証の更新手続きのお知らせが届いた。免許証に載せられるような顔写真など撮れる姿ではない。慌てて休みを取り、東京に引っ越す前に通っていた美容院に飛びこむようにしてやってきた。カラーリング剤やパーマ液のツンとした香りさえも愛おしく感じた。

 検温、除菌、マスク着用というひととおりの感染対策がとられており、雑誌は席に用意されず、タブレット端末のアプリで読むようにとサジェストされる。スタッフもずいぶん入れ替わったようだ。以前はちょっとおくしてしまうほど容姿のいいイケメン美容師がいて、むしろ彼にあたらないようにと祈っていた。しかし、今わたしの髪を洗ってタオルで包んでくれている美容師の女性はびっくりするほど細くて顔が小さく、それはそれで勝手に緊張感を覚えてしまうのだった。


 ミルクティー色からココア色に染め変え、少し残っていたパーマを活かしたデザインカットを施し、肩までの長さに切られた髪は、予想以上にわたしの心を軽くした。美容師にきっちり拭き取られた耳の中に秋風が吹きこみ、すうすうする。

 証明写真の撮影機のカーテンをめくり、ぎこちない笑みを作って撮影ボタンを押した。優良運転者という名のペーパードライバーなので、この写真は5年間使われることになる。

 もったりとした秋空の下を、気の早いショートブーツのかかとを鳴らして歩く。目的を持ってきびきび歩く人たちに混じっても気後れしない。けれど、少しだけ生まれ変わった自分を見てくれる人がいないことを、急に悲しく感じた。

 思えばしばらく雨月に会っていない。カクヨムの投稿にもリアクションはないし、LINEすら届かない。トークルームを開くと、『里瀬殿〜最近連絡ないので寂しいでアルぞ〜〜 もしや彼氏でもできましたかな?? 応答せよ!』で止まっている。

 商店街を見下ろす駅のロータリー──森とタピオカミルクティーを飲んだ辺りだ──で立ち止まり、端末に文字を打ちこむ。

『雨月おひさ! ちょっと転職やら何やらでどたばたしておりました(汗)陳謝!

 なんかだいぶ感染も落ち着いてきたみたいだし、飲みにでも行かね? 東京行くよ~』

 そのまましばらく画面を見つめていたものの、「既読」の文字は現れなかった。平日の昼時、出版社勤めの彼女は仕事中だろうか。諦めてスマートフォンを鞄にしまいこむと、急に差しこむような空腹を感じた。少しだけ活気を取り戻しつつある街の中で、自分の胃を満たしてくれる店を探すことにする。


 ──ああ。

 恋人がほしいと、切実に思った。

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