page42:引き潮

 昨日車で乗せられてきたときの記憶を頼りに、見知らぬ住宅街を歩き回った。

 古い家と新しい家が混在するエリアを抜けて見知ったバス通りに出たときはほっとした。感染対策なのか、自宅でオリンピックを観ているのか、通りを歩く人はまばらだった。寝不足の脚を懸命に動かして自宅方面へ向かった。

 たとえいっときでも熱くなった感情が、引き潮にのせられたように冷めてゆくのを感じるのは虚しかった。ただただ虚しかった。

 どうせなら熱いままでいたかった。さりとてもう、昨日までの自分に戻りたくはない。

 正午頃自宅に帰り着いたわたしは気力をふりしぼってシャワーを浴び直すと、食事もとらずにベッドに潜りこんで目を閉じた。去年のGWのときのように眠り続けてしまいたかった。

 目を覚ましたのは22時過ぎだった。健全な食欲を感じる。

 枕元のスマートフォンを探りあてたとき、待機画面に表示されたおびただしい数のLINE通知にぎょっとした。すべて森からだった。


『リゼさんお疲れ。昨日は楽しかったね。次はふたりで会えるかな♪』

『えっとー化粧品のことだけど難しく考えないでね。タケの先輩の会社で作ってるんだけど本当に良いやつだから。けっして怪しいモノではございません笑』

『ちなみに公式サイトはこれ。http//…… ガチで肌すべすべになったっしょ?w よかったら★5レビューよろしくでっす!!!!!』

『無視かよ』

『リゼさんひどくね? ってかあんな帰り方ある? タケ引いてたよ?』

『セッキーさんもリゼさんのこと昔からノリ悪いって言ってたよ。てかキミたち実はそんな仲良くないでしょ?www バレバレなの草』

『おーい』

『無視ですかー』

『もういいよわかったよもう連絡しませんからそれでいいんでしょ』

『俺のことなんて全然好きじゃなかったよね? てか見下してたよね? わかってたけどひどくね? 俺よりタケのことずっと見てたよね? 昨日だって家まで迎えに行かせてくれないしお母さんに俺のこと引き合わせるの嫌だったんでしょ。カクヨムだって俺のこと書いてもくれないし雪下ひるねさんのばっかり読んで俺の小説全然読んでくれないし。せっかく好きってゆってんのに俺のこと彼氏にもしてくれなかったよね。ずっとはぐらかしてたよね。ずるくね?』

『てか不要不急の恋人とかまんまで草』

『てか25なんだしもうちょっと自分のこと客観的に見つめた方がいいよ。そうやって他人との間に壁作ってたらいつまで経っても幸せになれないよ』

『いつまでもこじらせてればいいよー笑 さよーならー』


 わたしが既読を付けるのを待っていたかのように「moririはこのトークルームを退室しました」と表示され、ブロックされたことがわかった。確認する気も起きないけれど、カクヨムのアカウントも切られたことだろう。

 わたしが眠りこんでいる間に彼の中を駆け抜けたであろう激情の波を思うと、理不尽な言葉の数々にも腹を立てる気になれなかった。勝手に盛り上がって勝手に自己完結してくれたことに感謝の念すら湧いた。わたしは自分から幕を引くのは苦手だ。

 幼いな。空洞になった胸に、その感情だけが浮かび上がってきた。年下と付き合うのは初めてだったから自分の見立ても甘かったのかもしれないけれど、若さと幼さとは、似て非なるものだ。


 こんこん。ドアがノックされ、「ねえちゃん起きてる?」と譲治の声が聞こえた。

 んんん、と布団の中で返事をするも届いた様子はなく、ドアは遠慮がちに開かれた。廊下の灯りが差しこんで、部屋の闇の濃度が薄まる。

「大丈夫? 具合でも悪い? コロナ?」

「違う違う、ちょっと疲れただけ」

「ならいいけどさ。腹減ったんじゃないかって、母さんが」

「うん」

「今日ポトフだったよ」

「あ、食べたいかも。起きようかな。ありがとね」

 わたしがベッドの上に起き上がっても、譲治はまだなにか言いたげにドアのところに立っていた。

「どした?」

「……うちの大学でさ」

「うん」

 譲治が唾を飲みこむ音がはっきりと聞こえた。弟は昔から、言いにくいことを言うときこんなふうに喉を整える。

「なんか、女子をターゲットにした詐欺が流行ってるらしいんだ」

「……どんな?」

 自分の唇の端が痙攣けいれんするのがわかった。

「化粧品売りつける詐欺」

「……」

「最初は恋愛仕掛けみたいな感じで近づいて、仲良くなったところでサンプルかなんか渡してくるんだって。無料だと思って使うじゃん。でも絶賛レビュー書いてSNSで拡散しないと金とるんだって。すげえ高いみたい、3万とか。レビュー書いても、定期購入の手続きしなかったら結局請求されるんだって。払えなかったら、他の人間に同じように紹介してレビュー書かせなきゃいけないんだって」

 痙攣は止まらなかった。未開封のままさりげなくソファーの陰に置いて帰ってきたワインレッドのコスメセットをわたしは思った。

「S大の話だから大丈夫だとは思うけど、念のため。オンライン授業が増えたせいで、なんか校外でも活動してるらしいから。幹部っつーか中心人物はふたり組で、ひとりは今青い車に乗ってるらしい」

 暗闇を突き抜けて、譲治の視線が痛いくらい刺さるのを感じた。この子はきっと、気づいている。

 暗さのおかげで、情けなさの極まった顔を弟に見られずに済んだことだけが救いだった。

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