page41:夜は長いし〔下〕
「あっ……や……んっ……」
湿り気を含んだ吐息は、もはやはっきり聞き取れる。素足が床を擦る音が生々しく闇に響く。
情交。そんな生々しい言葉が浮かぶ。息を殺しながら武田とセッキーは交わろうとしている。あるいはもう、つながっている。
そしてわたしの足首には、森の手が巻きついている。
硬直していると、その手がすうっと膝のほうまで移動してきた。心臓が皮膚から5ミリくらい飛び出たところで鼓動しているように感じる。
「リゼさん」
床からおもむろに身を起こした森が、耳に吐息を吹きこむようにささやいた。
ぞわりと全身を駆け抜けるような鳥肌を感じた。
次の瞬間、わたしはがばりとソファから起き上がった。
「シャワー借りまーす」
真っ暗な空間に放った声は裏返った。それでも全員が呼吸を止めて硬直したことはわかった。
ソファーの裏に置いてあった自分の鞄をつかみ、床の上の脚を踏みつける勢いでどすどすと歩いて脱衣所へ向かった。
「なーんかあれだよね、やっぱお泊まり会っていいよね。学生時代を思いだしちゃわない? あれ、小岩井ちゃんも行ったっけ、あの清里のコテージ。ゆうちゃんが企画したやつ、ほら、あったじゃない」
ことさらにあつらえたような笑顔を貼りつけて、セッキーは言う。その下まぶたにマスカラがうっすら黒く
「コロナとかいろいろあるけどさ、やっぱ若者は飲み会しなきゃって思うよね。ねっ」
何が「ねっ」なのかわからないまま、わたしは無表情で顎を引く。肯定でも否定でもないが話を聞いてはいる、ただそれだけを示すものとして。もう無駄な愛想を振りまかないと決めていた。
ちょっと趣味の悪いカーテンの向こうがすっかり明るくなった朝8時、シャワーを浴びたり着替えたり昨夜の残りものを口に入れたり、3人はめいめい活動を始めている。
一刻も早く武田の部屋を後にしたいわたしは、帰り支度を済ませるとやることがなくなり、ティッシュを引き抜いて床掃除を始めた。そこにセッキーが話しかけてくる。
「けどさやっぱり男の子の部屋ってちょっと緊張しちゃうよね。昨夜は気づいたら寝ちゃってたわ、えへへ」
昨夜のあのことに対するわたしの反応を引き出したいのだろう。わたしの中にあるのが怒りか不快感か興奮か迎合か、確かめたいのだろう。おもねるような口調に心底うんざりした。
「お嬢様がた、少々よろしいですかな」
芝居がかった調子で背後から声をかけてきたのは武田だった。何やら小さなボトルがいくつかまとめてセロファン袋に梱包されたものを両手に持っている。コスメだ、とすぐにわかる。
「ふたりとももう顔洗っちゃった? これね、夜のうちに出せばよかったんだけど、差し上げます。どうぞどうぞお使いくださーい」
ワインレッドの小さなコスメセットを、武田は有無を言わさずわたしとセッキーに手渡してくる。その背後に、いつのまにか森も影のように立っていた。
え、いいの!? セッキーは笑顔で受け取っているが、わたしはなんだか嫌な予感がした。腹の中がざわざわする。
「えっと……これは……?」
「これね、うちの先輩の会社で作ってる化粧品なんだけど、肌にめっちゃくちゃいいの。ローションと、美容液と、これがえっと、クリームね。厳選されたオーガニック成分配合で、特許出願中の製法で作られてるの。口コミだけで展開してるから聞いたことないかもしんないけどね。広告費を抑えて開発費に回してるから、すんごい質が良くてお得な知る人ぞ知るコスメなの。初回だけ限定でふたりにプレゼント。そんで次からはね、俺かモリーを通じて買ってほしいんだ」
セッキ―の表情が固まる音が聞こえた気がした。
自分がこの展開をずっと前から予見していたように思った。それよりも、武田の思わぬ饒舌にわたしは圧倒されていた。
「さ、使って使って。絶対すぐにすごさがわかるから。そんで、使ったらサイトでレビュー書いてSNSでも宣伝してほしいんだけど、ふたりともインスタとかTwitterとかやってる?」
ベビーフェイスの笑顔が能面のように見えた。
セッキ―が
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