page40:夜は長いし〔中〕

 4人で囲むと、武田宅の小さなテーブルは雀卓じゃんたくのような様相を呈した。足が痺れないように曲げる向きをこまめに変えた。

 デリバリーのピザの箱がすっかり空になると、テーブルの主役は酒になった。発泡酒やハイボールやカクテルの缶がぎっしりとひしめき合い、その隙間につまみの類が乱雑に投げ出されている。

 酒類は男ふたりが用意した。おそらくは「女の子が好きそうな酒」を彼らなりに考えたのだろう、ほろ酔いだのちょいアルだのといったかわいげな言葉が躍る缶を遠慮がちにつまんでは、こくこくと喉に流しこんだ。柚子茶が飲みたいと控えめに思った。

 オリンピックの開会式をみんなで観ようというのがこの集まりのコンセプトのはずだったのに、武田はチャンネルをぱちぱちと変えた。油で汚れた指で操作されてリモコンはぎとぎと光っている。


 けしてつまらない時間ではなかった。会話の中心は男たちだった。大学の話。サークルの話。家族の話。まったく知らない人たちの話ばかりだった。それでもわたしとセッキーは適切なタイミングで相槌を打ったり、笑い声を立てたり、短い質問を挟んだりした。

 こういうの、なんかキャバクラみたい。行ったこともない風俗店に思いを馳せているうちに車の話になり、セッキーが会話に加わった。あのドライブの日のようにいきいきと語りだす。わたしは乾いたさきいかをもしゃもしゃと咀嚼した。

 民放でアニメ映画が始まると、武田と森が同時に「お」と言い、チャンネルは固定になった。少し前に話題になった小説が原作の作品だ。読んだことはないけれど名前だけは知っていた。難病を抱える明るい美少女の物語らしい。

 へえ、そういうのが好きなのか。いちばん食いついている森の横顔を見ながら思う。しかし、開会式は観なくていいのだろうか。長い長い選手入場はともかく、演目はきちんと観ておきたいと思っていた自分に気がついた。


「あたしいったんここ片付けちゃうね」

 よいしょっ、とかわいくかけ声をかけながらセッキーが立ち上がる。デニムのスカートの裾から伸びるしなやか脚が目の高さに現れ、男たちが吸い寄せられるように視線を向けた。

 そのまま腰を曲げて空き缶を集め始めるセッキーのカットソーの胸元が広く開き、今度は胸の谷間がくっきりと晒される。男たちの喉が鳴る音が聞こえたような気がした。あたしどうせ死ぬんだもん、というアニメのヒロインの声が空虚に響く。

「なんか悪いなあ、セッキーさん」

「いーえー」

 貼りつけたような笑顔のまま、セッキ―はてきぱきと飲み口の汚れた空き缶や油じみのできた紙皿を腕の中にまとめてゆく。ありがとう、助かる、お礼の言葉を口にしつつも男たちは彼女の脚を見るばかりで腰を上げようとはしない。

 どうしてだろう、どうして女性だけがいつも汚れ物処理班なのだろう、どうして女性だけがいつも気の利くことを求められるのだろう。人生の折々に浮かび上がるその疑問の答えのひとつは、彼女のように積極的に召使いになりたがるタイプが一定数存在するからなのではないか。

 人生で初めてそんなことを考えてみたりしながら、残りの汚れものを抱えてシンクに運ぶセッキーの背中を追った。

「手伝うよ」

「え、いいよ、大丈夫だよ」

 空き缶をゆすぎながらセッキ―は笑顔で言った。何の違和感もなく、彼女はこのキッチンコーナーにおさまっている。もしかしたら既にこの部屋を何度も訪れているのかもしれない。

 それでも手を伸ばそうとすると、「いいから」とぴしゃりと言われ、わたしは固まった。酒で温まった腹の中がしんと冷える。

「あっちで呑んでていいよ、ほんとに。大丈夫だから」

 気まずさを取り繕うように明るい声で言いながら、セッキ―は顎で部屋を指した。


 追い返されたわたしが席に戻ると、武田がそわそわし始めた。ちらちらとセッキーの方へ視線をやっている。会話にも上の空だ。

 アニメ映画では巨大な花火が打ちあがり、ヒロインと主人公の男の子がおずおずと抱き合っている。若い。したたるような若さをなんだか直視できず、わたしはふわふわと視線を宙にさまよわせ、ハイペースでスミノフを飲んだ。

 しばらくすると、

「昌馬くーん、フルーツナイフってあるー?」

と声がかかった。武田がいそいそとキッチンへ向かう。

 きゃっきゃと戯れるような男女の声が聞こえてきたかと思うと、やがて山盛りの桃を乗せた皿を捧げ持ってふたりが戻ってきた。

 皮を剥かれた桃の白い表面には、女性の毛細血管のような細く赤い筋がいくつも走っていた。


 目が覚めたのは深夜だった。

 闇の中で目玉だけをゆっくりとを動かす。いつのまにか消灯され、豆電球だけがついている。わたしはソファの上、他の3人は床に転がって雑魚寝していた。アルコールと麺つゆとエアコンの吐きだす風のにおいが混じり合ったよどんだ空気が部屋に満ちている。

 いつのまに寝てしまったのだったか。セッキーの剥いた桃を食べ(結局冷やし忘れていたが甘くておいしかった)、アニメ映画が終わってチャンネルを戻して開会式のフィナーレを見届け(最後の聖火ランナーを見て森が「俺この人好き」とつぶやいた)、日付の変わる頃セッキーが茹でた「オソウメン」を食べ(ほとんどが男たちの胃にきれいに収まった)、そこから先の記憶が曖昧だ。シャワーを借りていいかたずねようとしているうちに、酔いが回って眠くなってしまったのだと思う。たぶん。

 歯磨きもせずにまどろんでしまったので、口の中が嫌な具合に粘ついている。エアコンの冷気が直撃していたせいか、喉もひりひり痛む。

 せめて口をゆすいで化粧くらい落としておこう。そう思い、身を起こそうとしたときだった。

「ん……あっ……」

 闇の中に漏れる息遣いに、心臓がどくんと鳴った。

 わたしのいるソファのすぐ下には森が寝息を立てており、反対側の壁近くに武田とセッキーが並んで横になっている。そっと首をもたげて目を凝らしても、何がどうなっているのか角度的にはよく見えない。けれど、闇に目が慣れるとふたつの人影がうごめいているのがわかった。

「あ……」

 甘くせつない、小さな声。衣類の擦れるような音。押し殺した息遣い。

 ふたりが何をしているのかは考えるまでもなかった。

どくんどくんどくんどくん。心臓が拍動を強め、喉はからからに干上がってゆく。


 ソファに留めつけられたように動けずにいると、何かが足首に触れて声が出そうになった。

 眠っていると思っていた森がいつのまにか目を開き、ソファから垂れたわたしの足に手を伸ばしている。

 闇の中で、かっちりと目が合った。

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