page39:夜は長いし〔前〕
東京オリンピックの開会式を友人宅で鑑賞してそのまま泊まってくる。そう伝えると、母はさすがにいい顔はしなかった。
外泊に親の許可が必要な歳でもないが、COVID-19はデルタ株の猛威が連日話題になり、不要不急の会食なんて自粛すべきことは明らかだった。
それでも母が行かせてくれたのは、わたしが都内の部屋で引きこもりすぎてどこかおかしくなってしまったことを察したからだろう。出がけには、山梨の親戚が送ってきた桃をどっさり袋に詰めて持たせてくれた。
森と家族を引き合わせることにはどことなく抵抗があったため、車で迎えにきてくれる森には近所のコンビニを指定していた。
サンダルのストラップをぱちんと留め、振り返らないよう玄関を出た。背中に母の視線がいつまでも貼りついているような気がした。
森が武田に車を譲って新しく購入したというのは、以前観ていたドラマのスポンサーのCMで頻繁に目にしたおしゃれなコンパクトカーだった。車体は目にも鮮やかなブルー。中古車だそうだけれど、とてもそうは見えないくらいぴかぴかだ。急にテンションが上がった。
「お邪魔します」
コンビニの駐車場で助手席に体を入れながら、思わずつぶやいてしまう。待ち合わせついでに買い足した酒類やつまみを後部座席に押しこんでから運転席に乗りこんだ森は「お邪魔されます」と笑った。あずき色のTシャツと白いチノパンは、彼の浅黒い肌によく映えていた。
ばたん。ばたん。ドアを閉める音がわずかにずれて重なる。ウィンカーを出し、駐車場からなめらかに車道に出た。武田のアパートまではそう遠くないという。
悪くないかもな。見知った風景が少しずつなじみのないものになってゆくのを見ながら、わたしは思う。なんだかわからないけど年上のわたしを気に入ってくれて、青い車で迎えに来てくれる男の子と付き合うって、悪くないかもな。
海ほたるへ行ったあの日とは違い、ふたりきりの短いドライブだ。足元がふわふわして落ち着かない。
自宅の界隈とはまた違うにおいのする住宅街に入ってゆく。いくつめかの赤信号で停車したとき、森はおもむろに顔を近づけてきてわたしの耳たぶにキスをした。
膝に抱えた桃の香りが、車の中に充満している。
武田の住まいはいかにも学生向けのアパートで、室内はリフォームされてそこそこきれいな1DKだった。とりあえずバス・トイレ別とわかってほっとする。いくら気になっても、お世話になる宿主に「ユニットバスですか?」なんて訊けない。
自炊はほとんどしないという武田のキッチンは、買ったきり使われる機会の少なかったのであろうぴかぴかのキッチン用品と、きれいに洗って重ねられているコンビニ弁当の容器がちぐはぐの存在感で同居していた。
「女の人って台所から見るよね~」
いつのまにか背後に来ていた武田にささやかれ、びくりとなる。
「あ、これ桃なんだけど、どこに置いたらいいかなと思って」
袋ごと家主に差しだすと、ベビーフェイスの武田は目を細め「なんにも要らないって言ったのに」と言いながら受け取った。指先がわずかに触れ合う。
彼にはもう、心を乱されることはないと思っていた。さっき森に初めてキスされたとき、もっとしたいと思った。それなのに今鼓動がうるさくて、わたしは自分をつくづく面倒だと思う。
ソーシャルディスタンスを心掛けて過ごすコロナ禍において、他人と直接触れ合う行為はハードルの高いものになってしまった、だからいちいち体が反射的にびっくりするだけだ。わたしはそうやって自分を納得させた。そうでもしないと、とてもじゃないが男女混合宿泊会などやり過ごせない。
「桃ってさ、冷やしちゃうと甘くならないんだってね。食べる2時間くらいまでは常温がいいらしいよ」
武田はそう言いながら、桃を袋からひとつひとつ取りだし、食器棚の空きスペースにしまってゆく。知っていたけれど――なんならテレビで見て弟に自慢気に披露したばかりの知識だけど――、微妙な心理が働いて「へえそうなんだ」と大げさに反応してしまった。
「晶馬くーん」
セッキーの声に、一緒にふりむく。紙袋を掲げて微笑む彼女は、今日はグレーのカットソーにデニムのスカートだ。相変わらずシンプルなコーディネートなのに女性っぽさがあふれ、裾からのぞく健康的な膝に視線が吸い寄せられる。
「お
オソウメン、オヤショクという単語を脳内で漢字変換するのに2秒ほど要した。
「あ、
清雅という名前が自分の新しい恋人のものであるということを理解するのに、さらに2秒ほどを要した。
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