page38:タピオカデート
埼玉に戻ってきても、東京都の感染者数を気にしてしまう癖が抜けない。
でも、あたりまえのことなのだろう。コロナ関連のニュースは真っ先に都内の感染者数から報じられるし、両親も弟も「今日、東京1,000人超えだって」などと盛んに話題にする。県境を越えたらウイルスが弱体化するわけでもない。
しかし、都知事選に行こうとして選挙権がないことに気づいたときには自分で笑ってしまった。
森はきっと選挙になんか行かないタイプだろうな、と先取りするように考える。武田はどうだろうか。っていうか、武田とセッキーはどうなったのだろうか。
セッキーとは会えば親しく会話するものの、個人的に連絡を取り合うことはほとんどない。必要最低限のLINEしか来ないし、話題が発展することもない。
女同士、もうちょっと親交を深めたり情報交換したりしておいたほうが男たちの前で自然に会話できる気がするのだけれど、向こうにはそんな気はないらしい。そういう合理主義的なところが、高校時代から彼女にはあった。
「オリンピックの日、さあ」
とりとめない思考をぱちんと切断するように森の声がした。同時に蝉の声が耳に入ってくる。わんわんわんわん、とアブラゼミが鳴いている。
水色のTシャツのところどころを汗で変色させて、節くれた手でタピオカミルクティーの容器を包んでいる。自分のブラウスには汗じみができていないか急に気になり始め、ちょっと落ち着かない。
「ん?」
「じゃなかった、開会式さあ、4人で観ないかってタケが」
またも感染が急拡大し、第5波という声が聞こえてきた頃、わたしたちは初めてふたりきりで会った。仕事が決まったと言ったら、タピオカ奢りますと誘われたのだ。
あのドライブ以降は4人でオンライン飲み会をやったきりなので、実際に会うのは2度目だ。
駅前広場の木陰は意外に穴場で、店内で飲むよりも密にはならない。それでもただただ暑くて、駅ビルで買ったタピオカミルクティーはあっという間に常温になった。タピオカのぐにぐにとした食感が心地よく、食べるのがずいぶん久しぶりであることを思いだした。目の前を通り過ぎる女子高生たちにちらちら見られても、なぜだか気にならなかった。
好意らしきものを告げるあのLINEには、まだ曖昧な返事しかしていなかった。情勢的にも純粋に感染が怖く、誰かと付き合う具体的なイメージが持てずにいた。それでも、「ちなみに俺、ワクチン接種済みなんすよ」と言うのでほだされて会ってしまった。
森には持病のぜんそくがあり、基礎疾患枠で早めに打たせてもらえたのだと言う。そういうことは早く言ってほしい。ドライブの日、よけいな勘繰りをしてしまったではないか。
「……4人で? どこで?」
「俺は実家だから、タケのアパートになるんじゃないかなあ」
「いかにも政府や東京都が反対しそうなことだね」
口に出してから、また「まじめか!」が来るかと身構えたけれど、森はずずずとミルクティーをすすって
「ね、カクヨムには俺のこと書いてくんないの?」
と甘えるように小首を傾げて言った。
”うなぎ”を名乗るだけあって、真っ黒に日焼けした肌。野球部員の高校生みたいな短髪。よく見ると左右非対称な目がいつのまにか気に入っていることに、わたしは気づいた。
大学の在籍は経営学部と聞いて、法学部の譲治とは違ったことにどこかほっとした。草野球サークルの幽霊会員だという。親戚が管理職を務める建設会社に就職を決めていて、今は羽を伸ばしているところなのだそうだ。武田もメーカーに就職するらしい。
就職祝いがタピオカドリンクだなんていかにも学生らしい祝いかたで笑ってしまうけれど、新しいバイトが決まるたびに即座に「じゃあ奢ってよ」と返してきた学生時代の恋人よりも気持ちがある気がした。
その後はカクヨム談義が続いた。森も雪下ひるねさんのファンだという。
森自身の──"浦和うなぎ"の連載しているディストピア小説はわたしにはうまく理解できない部分が多いと正直に告げると、「無理して読まなくていいっすよ」とアシンメトリーな目を細めて笑った。
暑さで溶ける前に解散した。キスもセックスもしないデートは新鮮だった。
BPO。ビジネスプロセスアウトソーシングの略。
そう言われてもぴんとこないけれど、要は企業の業務を外部企業にまるっと委託する経営戦略のことらしい。近年、増えているようだ。
転職サイトで「完全在宅」で検索して出てきた請負業務の案件に応募してみたら、これまでの苦労が嘘だったかのようにあっさり採用された。中小企業の簡単な事務を自宅で代行するという仕事だ。
結局また契約社員だけれど、外へ一歩も出ずに自宅のPCで仕事ができるのはありがたかった。出社の必要はないし、シフトの調整もかなり自由がきく。前職の事務経験も生かせる。何より、実家に
宣伝用のTwitterで軽く報告してみたら、雪下ひるねさんがさっそくリプライしてくれた。
『わ~おめでとうございます! また執筆に生かせそうな経験が増えますね。これからもリゼさんの書かれるものを楽しみにしています★ でも無理はしないでくださいね』
胸の中がじわっと温かくなる。そのまま雪下ひるねさんの学園小説の最新話を読み始めたら、また没入してしまった。言語感覚が近い人なのかもしれない。森の作品よりも読みやすく夢中になってしまうのがなんだか複雑だった。
『里瀬殿〜最近連絡ないので寂しいでアルぞ〜〜 もしや彼氏でもできましたかな?? 応答せよ!』
おたくモードの
世界では未曽有のウイルスが猛威を奮っているなんて、信じられない夜だった。
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