page37:蘇る声

 ぱんぱんに詰まったスーパーの袋を前かごに入れると、その重みで自転車の前輪がぐらりと横を向いた。

 火傷しそうなほど熱いサドルにまたがり、汗ばむ太ももを意識しながらペダルを踏みこむ。

 こめかみから大粒の汗がこぼれ、ハンドルを握る手の甲にぽたんと落ちた。マスクの内側で、鼻のまわりにも細かい汗が生まれてゆくのを感じる。

 しゅわしゅわしゅわしゅわ。ミーンミンミン。ジワジワジワ。

 街路樹で蝉がたけっている。 


 埼玉は暑い。それは、なかなか実家に帰りたくなかった理由のひとつでもある。

 大学時代、夏休みに横浜にある友達の家に泊まりにいったら暑さの質が違った。暑いことは暑いけれど、町全体を海風が通り抜け、埼玉のようなこもった蒸し暑さとは異なるものだった。

 地形的に盆地になっていて海もないから、都心の熱気が流れこんで吹き溜まりとなる。なんだかずいぶん不公平な気がする。


 ──そんな話は、森や武田にはできないな。また「まじめか!」と笑われてしまいそうで。

 ようやく自宅に着き、車庫の奥にある小さな倉庫に自転車を入れながらそんなことを思う。倉庫の誇りっぽいにおいはどこか落ち着く。生前の祖父がよく吊るしていたたまねぎのにおいも残っているせいだろうか。

 エコバッグを忘れて3円で購入したレジ袋を指に食いこませながら玄関に運び込むと、ふう、と重めの息が漏れた。靴棚の上のアルコールジェルのポンプを押すと、ひと筋のジェルがあらぬ方向へ飛んでいった。

 あらおかえりい、暑かったでしょ、という母の声を聞きながらダイニングテーブルに袋を置く。

「あ、シーフードミックスはすぐ使うから出しといて。あと玉ねぎも」

 買ってきた食料品を取り出して適宜冷蔵庫にしまってくれる母にひと声かけてから洗面所へ向かい、汗で蒸れたマスクをようやく外してごみ箱に捨てた。


「塩気がちょうどいいね」

 母がようやく感想めいたものを漏らし、わたしは安心してスプーンを口に運んだ。

 今日の昼食はわたしの担当だった。シーフードピラフ。海藻サラダ。かきたまスープ。

 ごく簡単なものばかりだけれど、暑い中食材調達からひとりで頑張ったことをもっと称えてほしいとひそかに思う。向かい合った母はそれ以上の言葉を口にせずに咀嚼している。出戻ってきたときから比べると、ずいぶん会話が減った。

 父は仕事で、弟の譲治は大学へ行っている。授業によってオンラインだったり対面だったりするらしく、譲治はぶつくさ言いながら「無職は気楽でいいよな」とわたしに八つ当たりして家を出ていった。

 悔しいけれど無職なのは本当なので、今日の午前中はまじめに職探しに費やした。


 かきたまスープの卵をふわふわに作るコツは、モロちゃんが教えてくれたんだよな。

 ふと感傷にとらわれながら、レンゲを汁に沈める。あの人懐っこい声が蘇る。

 ──もっとスープの温度を上げて。あっつあつにして。そう、そこで一気に入れる。

 ──入れたあとはそんなにすぐかき混ぜないで。せっかく卵が固まろうとしてるから、少し待ってからざっくり混ぜる感じで。

 ──どうしてもうまくできなかったら、スープにちょっとだけ酢を入れるっていう手もあるよ。味が変わりすぎない程度にね。


「ああ、スープがおいしい」

 回想を打ち破る母の声にびくりとなった。

「え、ああ……よかった」

「かきたま、上手になったんじゃない? やっぱり一人暮らしすると上達するんだね」

 モロちゃんに教えてもらったの。覚えてる? 中学のときクラスにいた諸永もろながつかさ。小料理屋の息子でね、去年再会して、同棲してたんだ──。

 再び湧き上がった感傷をスープと一緒に飲みくだしたとき、テーブルの隅でスマートフォンがじじっと震えた。

 母をちらりと窺いながら、端末を手元に引き寄せる。

 ”moriri”。森からのLINEだった。

「やっぱり俺、リゼさんがいいんだけど」

 たったひと言のメッセージが目に入ったとき、眼球の裏が熱くなるのを感じた。

 既読は付けずに食事に戻る。かきたまスープを飲み干しながら、返信の言葉が何パターンも脳裏に浮かんでは消えていった。

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