page34:そういう名前なんだ

「カクヨムっすか、さっき見てたの」

 マスクを外すとひときわ幼く見えるその男は、開口一番そう言った。二十歳はたちそこそこだろうか。

 箸でざっくりと混ぜるそばからほくほくと湯気が立つ彼のラーメンどんぶりを、わたしはアクリル板越しに見つめる。


 他の席も空いていますよ。そう言わなかったのは、さっき自分があの老人に対して何もできなかったことへのうしろめたさのせいかもしれない。あるいは。

「あ、はい。え、わかりました?」

 ずいぶん目がいいんだな。最低でも2メートルは離れていたのに。

「ちらっと見えたから」

 ずずず、ずずっ。彼は音を立てて麺をすする。ごま油の香りが漂ってくる。初対面の人間の前でリラックスできるタイプなのだろうなと思いながら、わたしも冷めたオムライスを崩した。

「友達が小説書いてて、よく読まされてるんですよね」

「あ、そうなんですね」

「俺自身は書いてないんすけど」

「あ、そうなんですね」

 馬鹿みたいに同じリアクションしかできない自分にいらだつ。カフェテリアはみるみる混んできてほとんど満席だ。料理のにおいと人のにおいが入り混じり、大学の学生食堂を思いださせた。

「住民票かなんかっすか」

「え」

「区役所来たのって」

「え、ああ。引っ越してきたんです、昨日、都内から」

「へえ、昨日っすか」

「はい。それで転入届出しに」

「ふーん」

 ずずっ、ずずずっ。

 ラーメンの汁の飛沫が、Tシャツの緑をわずかに濃くしている。

 こちら側に軽く頭を倒してラーメンをすする彼の頭頂部、明るい茶髪の根本が1cmほど黒いのを見て、ふっと和んだ気持ちになった。

「そちらは?」

 なんと呼べばいいかわからずに問いかける。よくわからないこの時間が、急に意味あるものに思えてきた。

「友達から車譲ってもらうことになって、印鑑証明書取りに来たんすよ。車の登録ってなんかいろいろ必要みたいで。車庫証明書とか」

「へえ……」

 とりあえず成人はしているらしい。いや、印鑑登録って未成年でもできるんだっけ。

「前は業者に全部やってもらってたんすけど、サービス料取られるから自分でやった方が安上がりなんすよね。あ、その譲ってくれる友達ってのがカクヨムやってるやつなんすけど、その車ってのが」

 車の話題になると急にいきいきと喋りだす彼の唇が、ラーメンの油でてらてら光っている。


 一緒にカフェテリアを出るなり、連絡先を訊かれた。

「今度、車でどっか行きませんか」

 いきなりそんなことを言う。まだ名前も知らないのに、ずいぶん軽い人なんだな。誘われる嬉しさとかすかな不安が同時に湧き起こる。不安の方がやや優勢だ。

 それでも。倒れた老人に駆け寄り抱き起こす、あの一連の動作はまだ鮮やかに瞼の裏に残っている。だからどうってわけじゃないけど──。

「うーん、でもほら今、コロナとか」

「だからこそ人のいないエリアに行けますよ。それとも大宮ナンバーの車じゃ嫌っすか?」

「そんなわけないじゃない。うちだって大宮ナンバーだよ」

 とうとう口調がほぐれてしまう。うっかりこぼれた無防備な笑みが相手を安心させたことを悟る。

 出会って2時間も経っていないのに、この人はいったい自分のどこを気に入ったのだろう。まったくもってわからないのに、その軽薄さを既にどこか好ましく思っていることにわたしは気づいていた。

「……えっと、大学生、だよね?」

「S大の4年っす」

「あ、うちの弟もS大だよ」

 ということは、最低でも譲治よりひとつは年上なのか。弟より上なら、まあいいか。すばやく考えをめぐらせ、安堵する。

 そんな自分に、自分で驚いていた。何が「まあいいか」なんだろう。


「あっ、小岩井ちゃん! いたんだ!」

 カフェテリアから出てくる人の流れの中に、同僚らしき仲間を伴ったセッキーがいた。わたしと若い男を交互に見ながら、控えめに手を振ってくる。

 手を振り返すと、

「コイワちゃん?」

 そういう名前なんだ。男が、横から言った。

 マスクの下の両目に笑い皺ができるのを見て、負けた、と思った。

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