page32:思考より早く

「H041」と書かれた整理券と記入済みの申請用紙を持って着席するといきなり暇になり、わたしは文庫本のひとつも持参しなかったことを後悔した。

 空気を震わす大きなくしゃみに振り返ると、紙袋を提げた老人が正面入口の近くに立っている。グレーの濃淡でコーディネートされた身なりは悪くないが、どこか世の中を憎んでいるような目つきをしている。

 ぶわっくしょん。ぶわっくしょん。老人は腰を曲げてくしゃみを連発する。風邪なのかアレルギーなのかそれとも例の感染症なのか。

 彼が近くに来ないことを祈りながら、わたしはパイプ椅子をきしませて脚を組み替えた。


 転入届を出すため久しぶりに訪れた区役所は平日の昼間だというのに混み合っていて、ソーシャルディスタンスもくそもない。

 来るな。来るな。誰も隣に座ってくるな。

 オーラが出るくらい強く念じながら、わたしはハンドバッグの上でスマートフォンを操作する。

 カクヨムで連載中の私小説『不要不急の恋人』。きっとすべての書き手が大好きであろう「読者からの反応」をクリックし、最近もらったコメントをまとめて読み返した。


「コロナ禍以降、人付き合いや人間関係で何が必要で何が不要かを改めて考える機会が増えましたが、その中でふとこれまで自分はどれ程わたし自身の気持ちを無視し続けてきたんだろう、と気付くことがあります。

 今の里瀬りぜの行動は決して万人に好かれるものでは無いかもしれないけれど、彼女が彼女自身として再生する為に必要な時間なのかなと、そんな想いで見守っています。」


 いつも応援してくれているYUさんだ。どんなに情けないことでも書いてよかった、晒してよかった、と再認識する瞬間をわたしは噛みしめる。富岡とあの女性が連れ立って歩く姿がまぶたにちらつく。もう、籍は入れたのだろうか。

 幸せになってほしい、ほっとしています、他にもそうしたありがたい応援コメントが並ぶ。マスクの下で頬を緩める。都合のよい言葉ばかりをちゃっかり滋養にするのが物書きなのかもしれない。

 書き手仲間であり、友人の雨月うづきが敬愛している雪下ゆきしたひるねさんからも書きこみがあった。


「リゼさん、ご無沙汰しております。

 心機一転、お引越しされたんですね。

 生活のことももちろんですけど、なんだか不毛な恋愛だなとこっそり案じていたので、ほっとしてしまいました。

 あ、もちろんこれがすべて事実である必要はないのですが! 応援しています!」


 連載当時からすれば一話あたりのpvは右肩下がりだけれど、こうしてコアな読者として追ってくれ、更新のたびに声がけしてくれる人もいる。

 ああ、執筆の世界でもひとりじゃない。そう感じて、胸がじんわり温まった。空輸の果てに温室に入れられたサボテンのような気分だ。無機質な区役所にいるというのに。

 個人情報保護の観点から随所にフェイクを入れてはいるものの、綴っている内容はおおかた事実だ。ほとんどそのまま書き起こしているだけなのに、読み返してみるとそれなりに物語になっている気がしてなんとも複雑だ。わたしはいったいどこへ着地するのだろう。

 いつも見守っていてもらっている感謝をこめてコメント返しを打ち込み、そのまま雪下ひるねさんのページに移動した。

 そうだ、文庫本を携帯していなくたって、暇になることなんてない。救われた思いで、自分を読者モードに切り替える。

 連載中の学園小説に没入した。雪下さんの淡々とした筆致のおかげで、普段あまり読まないライトノベルもするすると入ってくる。

 今の私小説を書き終えたらこういうのを書いてみるのもいいな。完全にはOFFになっていなかった書き手モードでそう思いながらスクロールする。手続きをする人たちの声や雑音が耳から遠のいてゆく。


 えいちのよんじゅういちばんでおまちのおきゃくさま。えいちのよんじゅういちばん……

 それが自分に向けられている言葉と気づき、慌ててスマホの画面をOFFにして立ち上がった。液晶に「H041」と表示された窓口で、女性職員が高々と手を挙げている。同じ列のパイプ椅子に座る茶髪の男が該当者を探すような目できょろきょろしている。まずい、カクヨムに夢中になりすぎた。

「すみません、お願いします」

「お待たせいたしました。本日はどのような……」

「これ、転入届を出したくて」

「ご転入ですね。そうしましたら本日は何かご本人様確認できるものをお持ちでしたでしょうか」

「はい」

 ハンドバッグをもたもたと探って運転免許証を取りだす。しばらく車なしで一人暮らしをしていたので、すっかりペーパードライバーになってしまった。そういえば今年、免許更新だった気がする。

「はい、ご提示ありがとうござ……あれっ」

「あれっ」

 ほぼ同時に声が出た。目元の黒子と少しざらっとした特徴的な声には覚えがあった。相手もその目に驚きを宿してこちらを見る。

「やだ、セッキ―?」

小岩井こいわいちゃん?」

 周囲をはばかりながら小声でわたしを呼ぶ女性職員の胸元のバッヂには「エリートスタッフィング」とだけ書かれているけれど、高3のときクラスの一緒だった同級生、関根結愛ゆあのはずだ。とりわけ仲が良かったわけではないけれど、なんといっても卒業時のクラスメイトだし、思いがけない場所での再会は感慨の濃度を上げる。

「うそぉ、区役所勤めだったんだ。エリート……?」

「派遣なの。派遣会社」

 セッキーは短く言って、マスクの上の目だけで笑ってみせた。色味は変わっているものの品よく整えられたショートボブの髪は、昔のままだ。

 ああ、聞いたことがある。今、役所の仕事さえも民間の派遣会社に委託されていることがあるのだと。


 彼女の同僚に気づかれない程度に親し気なやりとりをして、再び先程のパイプ椅子に座る。

 セッキーはたしか早慶のどちらかに進学したのではなかっただろうか。どうして派遣社員に、と考えつつ、新卒で契約社員になった末に現在無職の自分だって他人からすれば理解できないだろうと思い至る。

 手続きにはまた時間がかかりそうだ。

 カクヨムの世界へ戻ろうとスマホを取りだしたとき、ぶわっくしょん! という聞き覚えのあるくしゃみとともに何かが倒れる音がした。

 少し離れた窓口の前に、転倒しているグレーの人影があった。先程の老人だ。持っていた紙袋から飛び出した荷物が派手に散乱している。

 わたしが何か思考するより早く、同じ列に座っていた茶髪の男がぱっと立ち上がり、駆けつけるのが見えた。

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