後編

page31:庭

 朝目覚めると、天井が白いクロスではなく木目だった。

 布団の手触りも、部屋のにおいも、窓から差し込む朝日の角度も違う。

 ――ああそうだ。

 実家だった、ここ。


「もっと早く戻ってくればよかったのにねえ」

 納豆の糸をふわりと舞わせて母が言う。

 豆腐と深谷ねぎの味噌汁に、ほうれん草のおひたしに、昨夜の残りの酢豚。トーストやコーンフレークがほとんどだったひとり暮らしの頃の朝食とはずいぶん違う。

「なんで会社辞めた時点ですぐに言わないの。電車乗れば帰れる距離なんだから、すぐ来ればよかったじゃないの」

「……だって」

「ずいぶんお金無駄にしちゃったんじゃないの? どうやって生計立ててたの」

「……」

 答えを待たずに母は質問を重ねる。久しぶりの再会を果たした昨夜は遠慮していたのだろうか。

 かりそめの男と同棲したりチャットレディでしのいだりしていたなどとはとても言えず、わたしは白い御飯を箸ですくう。自分で炊いた白飯よりもつやつやと光って見えるのは、品種の違いのせいだけではないだろう。

「姉ちゃんっていかにも仕事続かなそうだもんな」

 弟の譲治じょうじが皮肉げな笑みを浮かべて言う。憎らしいその唇が、酢豚の油でてらてらと光っている。

「だからー、仕事のせいとかじゃなくてコロナのせいだってば。聞いてた? 話」

「じゃあ会社を見る目がなかったんじゃねーの」

「うっさい! 食べ終わったんなら早く学校行けっ」

「残念でしたー、自宅でオンライン授業でーす……ちょっ、納豆の糸ついた箸振り回すな!」

「ばーか、あんたなんか死んでも入れそうにないとこに再就職してやるっ」

 ああ、どんどん口が悪くなりそうだ。幼かった頃のように。


 満を持して東京での一人暮らしに幕を下ろし、実家に出戻りしたのは昨日のことだ。

 無職の生活が限界だったのはもちろん、さすがに決別したかったのだ。一連の冴えない思い出と。そして、ひとりの不実な男を共有した女が働くスーパーのある町とも。

 いったん決意してからの自分の動きは素早かった。引越業者に見積もり依頼の電話をかけ、大量の服や雑誌や雑貨類を断捨離し、水道やガスを止める手続きや郵便の転送手配をてきぱきと進めた。北見くんやモロちゃんとの日々の残骸を見つけるたびに勢いよくごみ袋に突っこむことのできる自分を発見したのは有意義なことだった。

 見込んでいた量の3倍近くの段ボールを費やして3年2か月ぶんの自分の断片を詰めこみ、空っぽになった部屋に一礼して、アパートを出た。

 流れる車窓を見ながら少しだけ感傷的な気持ちになったけれど、涙までは出なかった。

 そうだ、わたしってこういう人間なんだよな、本来。

 電車がひと駅通過するたびに、富岡のマンションに押しかけようとした自分の情熱が過去のものとなっていった。


 さいたま市の経済の中心地、駅前からバスで終点まで乗りきった郊外に実家はある。わたしが4歳のときに建てられた家だ。上棟式じょうとうしきのとき母のお腹がはちきれそうに大きかったのを覚えている。入居後まもなく、わたしに弟ができた。

 大規模なリフォームでもしなければ老朽化は免れないであろう年季の入った家だけれど、板橋区のあの1DKに4年も住んだ身には快適と言うべきほかない住空間だ。天井が高い。キッチンも風呂も広い。猫の額ほどとはいえ、丹精された庭もある。

 そうだ、この庭が大好きだった。じゃがいもやさつまいもの種芋を植えて芋掘りを楽しんだこともあったし、葡萄棚をこしらえて収穫の頃カナブンに食い荒らされたこともあった。母の趣味で、薔薇いっぱいのイングリッシュ・ガーデン風に整えられていた時期もあった。

 今はささやかな花壇になっており、名前のわからない可憐な花々が身を寄せ合うように咲いている。初めての就職で造園関係の会社を選んだのは、この実家の庭をいつも心のどこかに置いておきたかったからかもしれない。

 昨夜久しぶりに一家そろって食卓を囲んだら、意外なくらい胸の奥が温まった。あのまま引きこもり生活を続けていたら精神を病んでいたかもしれないとさえ思える。幼少期から高校3年までの自分があちこちにいるような気がするこの家には、妙な落ち着かなさも感じるけれど。

 これまで、帰省するたび両親はわたしを最初の一晩だけ客人扱いした。疲れたでしょうといたわり、好物ばかり並べた食事や温かい風呂でもてなし、翌朝からは「働かざる者食うべからず」に切り替わる。そういう家庭だ。

 今回は帰省ではなく出戻りなので何か違うかなと思いきや、特段変わることなく、わたしは朝から洗濯にごみ出しにと労働力を惜しみなく提供している。ニートなので当然だ。


 公務員の父、パートタイマーの母、大学生の弟。彼らの暮らしの輪にもう一度自分を、しかも無職の状態で迎え入れてもらうには、身内とはいえ気が退けた。小うるさいけれど気取りのない家族に受け入れられ、肩の荷物を下ろしたようにほっとした。無条件に肯定してくれる、それでいて適度に遠慮なく察してくれる人たちが、今の自分には必要だった。

 狭い水槽でよりどころなく泳ぐ熱帯魚が、アマゾンの源流に再び放流された。そんな気分で、わたしは家事で中断していたほどきを再開する。半分物置きにされていたスペースを片付け、東京で買ったものたちを然るべき場所に収めてゆく。インテリアはちぐはぐなのに、なぜかそれらはしっくり空間に馴染んだ。

 開け放していたドアから譲治がひょいと顔を出し、配線手伝おうかだのお古のPCやろうかなどと声をかけてくる。

 そういえば、家族はわたしがいっとき激太りしていたことを知らないんだよな。膨らんで、元のサイズに戻って帰ってきたのだもの。そう思うと不思議なおかしさがこみあげてくる。

「ちょっと疲れたな、お茶しない?」

 こめかみに浮かぶ細かい汗の粒を拭い、生意気だが憎みきれない弟に笑いかけた。


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