page29:葉桜の下

 きれいだねえ。もうだいぶ葉桜だけど。あ、このへんまだ咲いてる。個体差あるね。

 大学生らしきカップルは、桜の枝にスマホをかざしては電子音を立てて撮影している。女の野暮ったいスカート丈と男の中途半端なパーマヘアがいやに目障りだ。恋愛初期特有の、どこか粘ついた声で喋る恋人たち。

 やがて彼らは枝ぶりのよい一角の前でスマホを取り出し、マスクを外して交互に相手を撮り合い始めた。

 そして、少し離れたベンチに座るわたしをちらりと見遣る。こちらが言いなりになる相手かどうかを見定める視線と、どこか媚びるような表情。

 わたしはわざと彼らと目を合わせ、ゆっくりと逸らした。とびきり不機嫌そうな顔を作って。

 彼らの小さな落胆が風に乗って届いた。

 こちらに声をかけてくることなく、ふたりは肩に手を回し合い、うんと腕を伸ばして自撮りを始めた。


 プライドをかなぐり捨てて良佳に電話したのは昨夜だった。LINEより、電話がいいと思った。

 無視されるかと思ったのに、応答がなくいったん切った直後に端末がぶるぶると震え始めた。

「あっ、もっ、もしもし」

 自分からアクションを起こしたくせに心の準備も整わぬまま、わたしはどもりながら声を発した。なんだか自分の声を聞くのがやけに久しぶりのような気がした。

「どうしたの」

 良佳の声は、なんの感情も宿していないように聞こえた。初めて彼女を認識したときの、あの黒地にピンクのラインの入ったヨガウェア姿がまぶたの裏に表れて消えた。

「あ、突然ごめんね。今大丈夫だった?」

「まあ、うん」

「よかった」

 どこか媚びるような声音こわねになっている自分に吐き気を覚えつつ、話したいことや話すべきことが波のように押し寄せてくるのを感じた。正確には、謝るべきことや報告すべきことなど。

 ──けれど。

「お願い、教えて。富岡さんちってどこにあるの」

 単刀直入に切り出すと、良佳は黙りこんだ。

「会って話したいことがあるの。でもなかなか連絡つかなくて彼。忙しいみたいだね。良佳はもちろん知ってるよね、ここから遠くないってことだけはわかってるんだけど……」

「会ってどうするの」

 年下のはずの彼女が姉のような口調で言った。もはやわたしに謝らせることなど諦めているかのような声だった。

「……ちゃんと話し合う、つもり。その、いろいろ」

「後悔しないでよ」

「え?」

「とみーの家に行くんなら、何を見ても後悔しないでよ。その覚悟でね。板橋区……」

「え、あっ、ちょっ、待っ」

 突然住所を喋り出した良佳をさえぎり、わたしは慌ててペンとメモパッドを手元に引き寄せた。


 若いカップルが去ると急に肌寒く感じられて、わたしはトレンチコートの前身頃まえみごろをかき合わせた。花冷えというやつか。鞄から水筒を取り出し、温かい柚子茶を飲んだ。

 等間隔に桜の木が植わった広場に面した一角に、富岡が住むというマンションは建っていた。外壁は長年風雨にさらされて変色したような色をしているが、地価の高そうなエリアに佇むその7階建ての建物には威厳があった。

「シフト的に水曜日は公休のはずだから、明日ならキャッチできるはずだよ。さすがに仕事の日に突撃するのはやめときなよね」

 昨夜の良佳の言葉を御守りにして、朝9時半からわたしはこの広場の入口にあるベンチで待っている。彼が姿を現すのを。

 エントランスから人が出てくるたびにどきりと心臓が鳴る。けれどまだ、子連れの母親数組と宅配便業者しか出入りしていない。


 ああ、尿意との戦いだ。

 今のところまだ平気だけど、いざとなったらここから少し離れた通りにあるコンビニでトイレを借りるしかないか。

 水筒の蓋を固く締め直しながら考えを巡らせていたとき、見覚えのあるチャコールグレーのジャケットを着た細身の男がエントランスから出てきた。

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