page30:ミズカマキリ
ほとんど反射的にわたしはベンチから腰を浮かせた。
5・6メートル先に富岡がいる。ポケットに手を突っこみ、ゆるゆると気怠そうに歩いている。遠目にもわかる後頭部の寝ぐせに、触れたいと思う。
大声で名を呼ぶべきか、無言で駆け寄るべきか。中途半端な姿勢で思考したその瞬間、マンションからもうひとり出てきた。女性だ。
良佳をそのまま縦に引き伸ばしたような、黒髪で素朴な高身長のその女性は、ぱたぱたとサンダルを鳴らして富岡に駆け寄る。富岡が立ち止まり、彼女を振り向く。
彼が彼女のためにポケットから出した腕に、彼女はするりと自分の腕を絡める。ごく自然な動作だった。
両脚が凍りついたように動けないわたしを置いて、ふたりは駅方面へと歩きだす。
ざわりと強めの風が吹いて、ふたりをわたしから遮断するかのように桜の花びらが舞った。
『だーから言ったじゃなあい』
電話の向こうで良佳はけらけらと笑った。
『突然家に行きたいとか焦ったけどさ、でもまあ、目で見ないとわかんないものってあるよね。だから行ってよかったんじゃない?』
「……ちゃんと話しておいてくれたらよかったのに、いろいろ」
自分の声を、水槽に向かって吐きだしているような気がした。あるいは、夜のプール。誰にも届かない、水の闇に。
『あたしはとみくんの浮気相手です、って? いや別にそれ言う必要ある? 彼氏は彼氏じゃん』
「……」
『いやー、彼、肉食なんだよ。見た目によらずね。ああ見えて職場の女の子平気で食い散らかしてるから。あたしは
きゃははは。ひときわ高いトーンで良佳は笑った。おつぼね、とわたしは口の中で復唱する。
何も思考できない今、彼女の声だけが世界と自分をつないでいるような気がした。
『あっ、ちなみにあの彼女さんは本命だけど、奥さんではないよ。内縁の妻ってやつね。けどさすがにそろそろ
「……」
胸の内側をひやりとしたものが流れる。
あのマンションを見たときからわかっていたはずだった。どう見ても単身者向けではなく、ファミリー向けの物件だった。
『でもな~まさか里瀬ちゃんに手ぇ出すとは思わなかったな~。基本スリム専だからなあ、彼。里瀬ちゃん最初の頃めっちゃポニョってたでしょ。顔が好みだったのかなあ』
「……ごめんなさい」
『え?』
「ごめんなさい、なんかその……いろいろと」
『今更?』
語尾を跳ね上げて良佳は言った。言葉に突如、熱がこもる。
『今更謝る気? あたしがいつから気づいてたと思う? 謝るタイミングどれだけあったと思う?』
「そ……うん、ごめんなさ……」
『誰のために謝るの? 自分が悪者でいたくないからでしょ、すっきりしたいからでしょ、違う?』
どこか笑いをこらえたような声で、良佳は怒りを表明した。
「ごめんなさい」
ごめんなさい。ごめんなさい。
その言葉は魔法の呪文のようだった。空虚に謝れば謝るほど頭の中は真っ白になり、やがてホワイトアウトした。
煙草の味のキスが口の中にふっと蘇って、消えた。
数日間、眠り続けた。
就職活動もカクヨムの更新も中断して、まん延防止なんちゃらがどうしたと報じているテレビも観ずに、深く、深く。
ああ、去年の今頃もこんなふうだったな。夢と夢の間でわずかに意識が戻るたび、あるいは空腹や膀胱を圧迫する尿意で体を起こすたび、わたしは去年の異常な睡眠を思い返した。
もしかしたら、毎年この時期は眠くなるのかもしれない。いや、そんなはずないか。どんな体質だよそれ。
風呂にも入らずに眠り倒し、夕闇が差しこむ部屋でいつ買ったのかわからないコーンフレークに牛乳をかけていると、小学生の頃の記憶がふと蘇った。
そう、たしかあれは、学校生活にもずいぶん慣れた小2の頃。
おたまじゃくしの泳ぐ大きな水槽が教室にあった。自然学習のときに沢からとってきた蛙の卵から
ところがある日、誰かがその水槽にミズカマキリを1匹放ったのだ。
まさに、無双。ミズカマキリは次々におたまじゃくしを捕らえては体液を吸った。
水槽は一気に地獄絵図と化した。おたまじゃくしの死骸がどんどん水面に溜まっていった。目を覆いたくなるような光景だった。
女子は泣き、男子は興奮して水槽に貼りついていた。
――そうだ、富岡はミズカマキリだったのだ。わたしはたくさんのおたまじゃくしの中の1匹に過ぎなかった。体液を吸われ、ぞんざいに放置されて。
ようやく自分を客観視できたのに、スマホの中の彼の連絡先を消去することはどうしてもできなかった。
牛乳を吸いすぎてぶよぶよになったコーンフレークを口に運んでは、もそもそと咀嚼した。
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