page26:震える声で
日用品や食材をぎっしり詰めたカゴを乗せたカートを押して、そろりそろりとレジに近づく。
「新田さん」はまだ2番レジに立っている。
3つのレジへの分岐点でフォーク並びで待っていたのに、ああ、「次のお客様どうぞお」とわたしを呼ぶのは彼女だ。
どうにでもなれ。
彼女が自分に気づく気配を感じながら、ひとつ呼吸をして大きく一歩踏みだした。
思考より体が先に動くことがある。だからこそ、富岡ともああなってしまった。
「……110円が1点……498円が1点……79円が2点……」
「久しぶりだね。元気だった?」
無表情で商品のバーコードを読みとってゆく良佳に、思いきって話しかけた。声が震えるのがわかった。
「299円が1点、2点……こちらおまとめ値引き入りまして580円……」
「スーパーもコロナで大変だね。ヨガは続けてる?」
「338円が1点……合計2,865円でございます。袋はおつけしますか」
無視を決めこむらしい。それならそれでいいと思った。悪いのはわたしだし、なにしろ彼女にとっては業務中なのだ。
とりあえず、ふたつのことがはっきりした。
自分の恋人とわたしとの関係に、良佳は気づいていること。短い友情が終わってしまったこと。
「じゃあ、カードで」
「こちらに差しこんでいただけますか」
金銭トレイに置いたわたしのクレジットカードに手も触れずに、彼女は無愛想に言った。
わたしは慌てて小さな端末の口にカードを差しこむ。暗唱番号を入力し、緑色の確定ボタンを押す。
里瀬ちゃん里瀬ちゃんとわたしを慕ってくれた良佳は今、死んだ魚のような目でわたしの手元を見下ろしている。そのことに、あらためて胸が切り裂かれる思いがした。でももう引き返すことはできないのだ。
「じゃあね」
最後だけは声が震えないようはっきりと発音して、笑顔らしきものを浮かべてみせながら、わたしはカゴを持って移動しようとした。
そのとき、良佳がビニールシート越しにぐっと顔を寄せてささやいた。
「とみくん、コロナ陽性だってよ」
――――え。
硬直するわたしの表情の変化を楽しむように、良佳はくしゃりと顔を歪ませて笑った。
「やっぱりか。わかりやすいね」
RRRRRRRR。
RRRRRRRR。
気がはやる。呼吸が浅い。
8コールでいったん切って、それでも諦めきれずにわたしはまた発信ボタンを押してしまう。富岡が仕事中なのはわかっているけれど、一縷の望みにかけて。
RRRRRRRR。
RRRRRRRR。
ああ。ああ。もう、だめだ。自分が、自分が嫌すぎて――。
『あい』
突然、
「あ、あの、ごめんね、仕事中だったよね」
良佳と対峙したときよりよっぽど心臓がばくばくしていた。
『いいから。なに』
屋外にいるのだろうか、だるそうな富岡の声と一緒に人のざわめく気配が耳に流れこんでくる。
「あの、……富岡さん、陽性だってほんと?」
緊張で声がひっくり返る。
彼が感染者なら、自分は濃厚どころではない接触者だ。今すぐ保健所に電話しなければならない身だ。検査を受けて、結果によってはすぐに病院へ――
『あ? なにが?』
こちらの声が聞き取れないのか、
「いや、だから……富岡さんがコロナ陽性反応だったって、良佳が……」
『なんだそれ』
富岡は
『なにでたらめ吹きこんでんだ、あいつ』
「…………」
肩からどっと力が抜けた。体中にどくとくとあたたかな血がものすごい速さで駆けめぐってゆく。
良佳はわたしを試したのだ。そのことがわかって怒りや不快感はこみあげたものの、安堵の方が圧倒的に大きかった。
だいたい、彼がコロナ患者であるならば、良佳だってスーパーのレジに立っている場合ではないはずだ。
『なに、あいつと会ったの』
「ああうん、マルムラで……」
より詳しく状況を伝えようとしたのだけれど、富岡は「じゃあ戻るから」とだけ言ってぷつりと通話を切った。
夕映えの空の下、自転車たちまでもがきっちりとソーシャルディスタンスを保って停められている駐輪場で、世界でたったひとりになった気がした。
「〇〇さんが応援しました。」
「〇〇さんがあなたの作品をフォローしました。」
しんと冷えた画面にカクヨムの青い通知が次々降ってきて、わたしはなんだか笑ってしまった。
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