page22:他人の恋人

 体重が、少しだけ減ってきた。

 ホットヨガの体験コースを始めて5回目で、1.5kgマイナス。ヘルスメーターに乗って、おお、と低い声が出た。

 実感として、背中や脇腹の贅肉がいくぶん薄くなった気がする。

 標準体重に戻るまでにはまだまだだけれど、引きこもり生活になってからというもの増加の一途だったので、自分にしては進歩と言える。

 体内のめぐりが良くなったせいだろうか、雨月に指摘されたニキビも、いつのまにかほぼ姿を消していた。


 もうちょっとヨガを頑張って、食事にも気を使ってゆけば、だいぶ元に戻れるかもしれない。いや、戻る必要がある。富岡とみおかもいるし——。

 いやいや、あの男は関係ない。思考に入ってこなくていい。

 好意を抱いているわけでもなんでもないし、あまつさえ他人の恋人だ。


 新田良佳の彼氏は、富岡という30歳になったばかりのフリーターだった。「とみくん」「とみー」などと良佳は呼び、下の名前は知らされていない。

 駅前の携帯ショップで働いているという。以前は良佳(彼女はわたしよりひとつ歳下だった)もそこに勤めていて、恋愛関係になったため彼女の方がスーパーに転職したのだという。


 良佳の休みに合わせて一緒に受けた前回のヨガのレッスンの後、スタジオを出ると富岡が壁に寄りかかり腕組みをして待っていた。相変わらずじゃらじゃらと装飾品の多いいでたちだった。

 誘われるまま3人で居酒屋に行った。

 新型コロナウイルスは第三波と言われるほど感染が広がり、大阪や北海道では医療崩壊の危機に瀕してすらいる。

 わたしがためらうと、「でもケーザイ回さないと」と良佳が笑い、「Go To Eatで奢りますよ」と富岡がぼそりと言った。

 自分でももはや感覚が麻痺していた。実際、政府はGo To(なぜ全角スペースなのか理解できない)などと旅行や外食を推進しながら「会合や会食はなるべく控えて」などと矛盾したことを言う。春よりも状況は悪化しているのに給付金も出ない。

 良佳は小柄でスリムなのによく食べる女性だった。ホットヨガに通っているのは「インナーマッスルを鍛えて、食べても太らない体をキープしたいから」なのだそう。

 よく食べながらよく呑み、よく呑みながらよく喋った。出会って間もないわたしという人間との会話の糸口を、よくもこれほど見つけられるなと思うほど闊達かったつに喋った。

 対して富岡は、自分からはほとんど話題をふったり会話を広げたりしなかった。良佳が喋っていても平気でスマホをいじったり、喫煙に行ったりする。

 それでいて不機嫌な様子でもないのが不思議だった。


 厚焼き卵にえのきバターに蛸わさにロングピザにダッカルビ。良佳は気持ちいいくらい注文を重ねながらかいがいしくわたしたちの世話を焼き、自らも旺盛に食べた。

「太っちゃうんだけど」

 半分本気で抗議をこめて良佳をにらむと、彼女は両耳を手で塞いで「あー、聞こえない聞こえなーい」とけらけら笑った。

 太ったことのない人間には、わからない。なんだか脱力し、せめて飲酒だけは控えておこうと思いながら氷の浮かぶ烏龍茶に口をつけたとき、斜め前の富岡と目が合った。

 咄嗟に視線を外すこともできないまま、2秒ほど見つめ合う形になった。

「おまえ呑みすぎんなよ、明日早番なんだろ」

 ぎこちなく視線を外しながら富岡が言ったときも、良佳はまだ子どものように笑い転げていた。


 良佳がトイレに立つと急に静寂が意識され、別の場所に放り出されたような感覚を覚えた。他の席の喧騒やBGMが強調されて聴こえる。

 を埋めるようにメニューを広げ、もはや何も受け付けない胃を抱えて「何か頼みます?」と訊いてみた。

「なんかすんません」

 富岡はわたしの問いかけに答えず、スマホに目を落としたまま言った。

「え」

「オカンみたいっしょ、あいつ」

 良佳のことを言っているのはすぐにわかったけれど、先を促すため黙っていた。

「人に構うのが好きなんすよね、昔から」

「ああ……」

 学生時代、いや、遡れば高校や中学校にも、あんなタイプの同級生がいた気がする。

 率先して他人の世話を焼き、趣味の合う者同士の橋渡しをし、積極的に自分のコミュニティに引き入れようとする子が。懐かしい顔がいくつか、ほろほろと浮かんだ。

「いや、なんか、ありがたいなって思います。良佳……さんのおかげでこうやって久々に人と食事したりできて、やっぱり人って社会的な生き物で、人間同士の有機的な関わりって大事だなって再認識したっていうか」

 緊張も手伝ってか、飲酒してもいないのにぺらぺらと言葉が出てきた。

 なんだか優等生っぽいこと言っちゃったかな。そう思ったとき、富岡がスマホから顔を上げ、ふ、と微笑んだ。


 あれから数日。

 次回のホットヨガはひとりで行くつもりだ。

 チャットレディはひと月ぶんの稼働だけでも結構な報酬額になったけれど、このままぐずぐずと続けていたら運気が落ちる気がして潔く解約手続きをとった。

 美肌に見せるためのクリップライトは電気代を食うため、これも思いきって取り外し、クローゼットの奥に押しこんだ。

 カクヨムで『不要不急の恋人』を更新し、水分がほしくなってキッチンに移動する。

 冷蔵庫の脇の暗がりにふと目を転じると、オジギソウがぐったりとうなだれるように枝を落とし、埃をかぶって枯れていた。

 自分がとっくにそれに気がついていたことに気がついた。

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