page21:オレンジ・ペコ

 女性は新田にった良佳よしかと名乗った。

 わたしは元来他人の顔を覚えるのが得意ではないので顔を見ただけではわからなかったものの、あのスーパーのレジで「にった」という名札を付けた店員に接客してもらったことがたしかにある気がする。それに少し鼻にかかったようなその声。

 記憶の断片がうっすらと手をつなぎ、ひとつの像を作る。


 あの老人から「助けた」という意識はまるでなかったけれど、「あのとき助けていただいた……」と日本昔ばなしの鶴のような台詞を言われて悪い気はしなかった。

 彼女は既にこのヨガスタジオのレギュラー会員になっていた。わたしがまだ体験コース中と知ると、他と比較して良かった点や微妙な点を教えてあげると目を輝かせて言う。家に帰っても待っている人もいない自分にいなやはなかった。

 結局わたしたちは、シャワーを浴びて身じたくを済ませると、連れだってスタジオを出た。

「寒っ」

「寒いですね」

 スタジオ内との気温差がすごい。ほてった肌に北風がすうすう染みこんでくる。そういえば木枯らし1号が吹いたとニュースで言っていた。

 寒い寒いと言い合いながらコートの前をかき合わせ、まだよく知らない相手と歩調を合わせてカフェを目指した。


「退会違約金ってのがね〜、曲者くせものなんですよ」

 ヨガの直後だと言うのにコーヒーフロートを注文した新田良佳は、ソフトクリームを崩しながらテンポよく語りだした。

「違約金ですか?」

 大好きな柚子茶もメニューにあったけれど、糖分を抑えるため紅茶にした。ダージリンのオレンジ・ペコ。北風で冷えた体の末端に再び血が巡る。

 おかわり用のお湯の入ったティーポットが付いてきたので、2杯分と考えればこの値段は妥当――ああ、またお金のことを考えてしまう。ずいぶん矮小な人間になってしまった。

 コロナ禍において誰かと対面でお茶を飲むことに対するかすかな罪悪感は、店内の座席を埋め尽くす人の多さを見て立ち消えた。みんな、感染のリスクを冒しても人と会いたい、外食したいのだろうか。

「そう。正規入会してから1年経たずに解約しようとすると、退会違約金って言って25,000円取られるんだよ、あそこ」

「高っ! そんな話聞いてない」

「公式HPのね、利用規約のとこに小さく小さーく書いてあるよ。コロナで営業休止した分の扱いとかで、揉めてる会員もいるみたい。Twitter検索すれば出てくるよ」

「まじで」

 ナチュラルに敬語を解除する良佳につられてタメ口になる。違和感はなかった。それを感じさせない彼女の雰囲気のせいだろう。接客業に従事する人間らしい滑らかな言葉運びに取りこまれたのかもしれない。

「まあインストラクターのレベルもそこそこ高いし、立地がいいからあたしは入会しちゃったけどね」

「そっかあ……考えちゃうな」

「あと、シャワーブース少なめなのが嫌だよね」

「そうそれ! みんなシャーッてすんごい勢いでヨガマット巻き始めるの、ついていけない」

「あれ怖いよねー。レッスン終わる前から殺気立ってるの。あたしも絶対無理だわー」

 女子高生のようにきゃっきゃと声を立てて笑っていると、モロちゃんとの別れ以降心に立ちこめていた霧が晴れてゆく気がした。

 そうだ、わたしに足りないものは人とのなまの会話だったのだ。オンラインじゃ埋められない。

 帰ったらチャットレディを辞める手続きをしよう。雨月とも会う約束をしよう。まじめに職探しをしよう――。


「良佳」

 突然、新田芳佳の肩越しに若い男が声をかけてきた。芳佳が振り向き、ああ、と破顔する。

「誰?」

 わたしの言うべき台詞を男は先取りした。

「里瀬ちゃんって言うの。実はマルムラのお客様。ホットヨガで偶然会って声かけちゃった」

「まじかよ。まーたおまえは」

 すらりとした、というよりは、ひょろりとした体型の男だった。ピアスに指輪にブレスレット。線の細さを補うように、装飾品が多い。髪には軽くワッフルパーマがかかり、黒いてかてかした素材のマスクを着けている。

「里瀬ちゃんごめん、これ彼氏。この近くで働いてんの」

「どーも」

「どうも……」

 痩せているということ以外に共通点のなさそうなふたりだけれど、会話や表情の温度や湿度はたしかに恋人同士のものだった。それに、よく見ればふたりの指輪はペアリングだ。


 良佳とLINEを交換し、このあと行く場所があるというふたりを座ったまま見送った。

 肩を並べて店を出てゆくとき、男の方だけが振り返ってわたしと目を合わせた。

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