page20:ヨガと汗
「手のひらと爪先でしっかりと体重を支えて……頭から
オリエンタルなBGMの中、インストラクターの声がスタジオにやさしく響く。
「このプランクポーズ……お腹周りの筋肉を鍛えます……インナーマッスルを鍛え……骨盤を正しい位置に戻し……二の腕の引き締め効果も……」
四つん這いの姿勢から体を持ち上げ、両手と爪先だけで体重を支えるのは、引きこもり生活を続けた身には辛かった。
嘘みたいに大きな汗の粒が、ぼたぼたと音を立ててヨガマットに落ちてゆく。
25年間の半生において、「ちょいデブ」などと形容されたのは初めてだった。
ダメージははかりしれなかった。たとえそれが顔も見えない相手からの言葉であっても。
光の速さで駅近のホットヨガスタジオの体験レッスンを申しこんでいる自分がいた。全7回のお試しコースの、今日は2回目だ。
まずいのはわかっていた。コロナ以前に比べ、9kg増の激太りである。
ビジュアルの問題はもちろん、短期間で一気に体重が増えたことでの健康への悪影響も案じられる。
中学高校と運動部で通したし、大学ではワンダーフォーゲル部だった。アウトドア派だった自分をインドアの引きこもりにした疫病がつくづく憎らしくなったし、自分に肥満遺伝子があったことへの新鮮な驚きもあった。
でも気づけば感覚が麻痺していた。太った体で平気で男を部屋に引っぱりこみ、出て行かれた後もさらにぶくぶく太り続けた。
転職活動でもすれば歩き回っていくらか痩せたかもしれないのに、PCの前からほとんど動かないで済む怪しい副業を始めてしまった。
愚の極み。どうかしていた。堕ちた。とうとうわたしは自覚するに至った。
「ではそのままお尻を天井へと高ーく上げてダウンドッグ……体全体で三角形を表現……太腿の裏側を気持ちよーくストレッチ……」
インストラクターの喋りには独特の抑揚がある。
頭を低くしているせいで顔に血が集まり、耳の後ろからぞろりと汗の粒が出ていった。
普段使わない筋肉の存在をたっぷり意識させられる。明日は体のあちこちが痛むこと間違いなしだ。
きつい体勢のままちらりと隣りを見ると、ヨガなんて必要ないのではというくらい細い女性がポーズをとっていた。黒いピタッとしたヨガウェアに、ピンクのラインが縦に入ったデザイン。ああいうのはどこで売っているんだろう、普通にスポーツ用品店かな、と考える。
昼間のレッスンとは言え、スタジオはほぼいっぱいだった。みんな自粛生活に嫌気がさしたのかもしれない。
緊急事態宣言の頃よりもむしろ感染者は増えているというのに、伝統的なイベントも軒並み中止になったくらいなのに、人はなんて飽きっぽい生き物なんだろう。かくいう自分もだけれど。
もちろん、スタジオ側でも運営上、感染症対策はなされていた。
受付の前の自動検温装置の前に立つだけの検温をし、両手のアルコール消毒が必須。行動経路に関する簡単なアンケートと署名。除菌・消臭用のスプレーがあちこちにセットされ、レッスン中にもインストラクターが何度か扉を開閉し、空気の入れ替えを行っている。
それでも密は密だし、ノーマスクだし、汗は飛び散る。この中で誰かが感染していたら一発アウトだなあと思いながら、突っぱる両脚に力をこめる。
「お尻を踵の上にすとーんと下ろして……腕をぐーんと前に伸ばしてチャイルドポーズでリラックス……」
1時間のレッスンだけれど、開始から20分で既に信じられない量の汗が体から出ていった。この調子なら、続けてゆけば痩せるかもしれない。でも、正規入会するとけっして安くはない月会費が発生する。ヨガマットやら何やら、グッズもいろいろ買わされそうだ。
「呼吸を意識して……背中に酸素をたーっぷり届けて……」
インストラクターか。待遇は良いのだろうか。月給いくらもらえるのかな。手に職があるって強いな。
最近は、気づけばお金のことばかりに思考が流れる。自分がひどく俗っぽい、つまらない人間になった気がする。
レンタルのヨガマットに額をつけると、染みこんだ誰かの汗がつんとにおった。
「今日もヨガのできる健康な体があることに感謝して。皆さんと共にヨガができたことに感謝して。ナマステ」
正座と合掌で挨拶をするなり、受講者たちはさっと立ち上がり、すごい勢いでヨガマットをくるくる巻き始める。荷物をまとめ、出入り口の扉で見送るインストラクターへ頭を下げながら、民族大移動のように更衣室へと突進してゆく。
シャワーブースの数が、受講者よりも少ないのだ。まるで椅子取りゲームそのもの。
前回あぶれて並ぶことになったわたしは、今日は最初から諦めてゆるゆるとヨガマットを巻いた。
シャワールームの入口では、既にふたりほど順番待ちをしていた。タオルや着替えを持ってその後ろに並ぶ。ソーシャルディスタンスということで、気持ちばかりの距離をとる。
ざあざあ響くシャワー音と流れこんでくるボディーソープ類の人工的な香りを感じながらスマホを開き、カクヨムの青いバナーをスライドする。よくコメントをくださるYUさんからのメッセージに顔が緩む。
「あの」
最初は自分にかけられた声だと気づかなかった。
「すみません、あの」
背中にそっと手を触れられてびくりと振り向くと、さっき隣りにいたスリムな女性だった。窺うようにこちらを見ている。
「え、あ、はい」
「あの、違ったら申し訳ないんですけどあの、前にスーパーで……」
「へ?」
意図するところがつかめずに、彼女の片耳の下でまとめられた黒髪や、ヨガウェアのピンクのラインを意味なく見つめてしまう。その少し鼻にかかったような高めの声が、どこかで聞いたことのあるような気がする。
「あの、スーパー丸村の……わたしあの、レジで助けていただいた……あ、春くらいに……」
わたしがひらめくようのを待つように、彼女は語尾を伸ばしながらきれぎれに言葉を投げかける。
「おじいさ……あの、お年寄りのお客様がビニールシートをめくり上げてこられたときに、お声がけいただいて……」
「え、ああ……! あのじいさんの!」
突然理解した。
妙につやつやした老人の肌。アタック抗菌EX スーパークリアジェル。「年寄りいじめて楽しいのかねえ!」というだみ声。そうだそうだ、あのときの女性店員だ。
「たまにお店でお見かけしてたんですが、御礼が言えないままでずっと気になってたんです〜、ほんとにありがとうございましたあ」
女性は旧友に再会したかのような親しげな笑顔を見せた。
こんな近距離でマスクなしに人と話すのはいつ以来だろう。わたしはそんなずれたことを考えていた。
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