page16:迎えに来た女

「あれっ、ねえ、ちょっと」

 モロちゃんの声に、化粧水をはたく手を止めた。

 そういえば最近、名前で呼んでもらってないな。そんなことを思いながら、霧吹きを手にした彼と一緒にキッチンの隅の暗がりにしゃがみこむ。

「ほら、なんかちょっとやばくね? これ」

「あれ……ほんとだ何これ」

 オジギソウの葉っぱ全体に、白い斑点ができていた。


 カビによるうどん粉病とも思われるが、おそらく葉ダニによる被害だ。小さなダニに汁液を吸われ、葉緑素が白くなって光合成できなくなるとのこと。

 ふたりでせっせとweb検索で情報収集して、そんな結論を得た。

 葉の裏をめくって虫を探したけれど、それらしきものは見つからない。ごく小さいため目には見えづらいらしい。

「とにかく殺虫剤買うべ」

「だね」

 モロちゃんと肩を並べて、生ぬるい晩夏の空気の中をドラッグストアへ向かった。

 9月になってもまだまだ暑い。肌はべとつき、マスクの下にたちまち汗の滝ができる。

 モロちゃんのクロックスのサンダルがかぽかぽと乾いた音を立てる。

 手をつながないのは暑さのせいだと思うことにする。


 いくほども歩かないうちに、モロちゃんが足を止めた。

 横断歩道の信号は青だ。

「……どした?」

 半歩先から彼を振り返ると、通りの向こう側を真顔で見つめている。

 その視線をたどると、若い女性が立っていた。向こうもこちらをぎらぎらと見つめている。そのマスクの白さがやけに目についた。

「……やべっ」

 モロちゃんがくるりときびすを返したとき、ぱりんとした女性の大声が響いてきた。

つかささんっ!」

 え、え、と思う間もなく、女性はこちらに向かって駆けてくる。清楚なワンピース姿だけれど足元はスポーティーなスニーカーだ。信号が点滅しているが、間に合ってしまう。

 逃げるように走りだそうとしたモロちゃんの首根っこを、ものすごい勢いでつかんだ。

 黒い髪をおだんご型に結い上げた彼女は、間近で見るとわたしたちと同じ二十代半ばに見えた。

「つかまえた! やっと、つかまえたっ」

「ちょ、やめ……」

「司さんてば、こんな、こんなところでっ」

「やめろってっ」

「こんなところで何やってるんですかっ! お店に戻ってくださいっ」

 ぜいぜいと肩で息をしながら叫ぶ彼女と、彼女にTシャツをつかまれたモロちゃんは、往来の真ん中で揉み合いになる。

 フラッシュモブにでも遭遇したような心地で、わたしはだらんと腕を垂らしたままふたりを見つめた。

「いや……あんたたちだけでなんとかなるっしょ」

「なりません! いつまでも、子どもみたいに、逃げてないでくださいっ」


 ――ああ。

 ようやく状況が飲みこめてきた。

 きっちりと結い上げた髪。香水も香らず、マニキュアもしていない。この子が、モロちゃんがコンプレックスを抱く若手の料理人なのだろう。もしかしたら、それだけの関係じゃないのかもしれないけど。

 それにしたって、なぜここがわかったのだろう。

「とにかく行きますよっ」

「ちょっ、待っ、いてえよ」

 わたしには一瞥いちべつもくれず、彼女はモロちゃんの二の腕をがっちりとつかみ、駅方面へとぐんぐん進んでゆく。

 もっと抵抗してもよさそうなものを、モロちゃんはどこか諦め顔で引きずられてゆく。

 全力で振りきって、走って逃げればいいのに。

「里瀬ー、ごめん」

 そんな言葉だけが風に乗って届いた。

 おそろいの色に染めた髪の毛が陽炎の向こうに遠ざかってゆくのを、わたしはなす術もなく見つめていた。



 ぷしゅっ。ぷしゅっ。

 ひとりで買ってきた殺虫剤を、わたしはオジギソウに噴射した。害虫一発! とどこか古い書体で印字されたボトル。

 ぷしゅっ。ぷしゅっ。このくらいでいいのかな。加減がわからない。ぷしゅっ。ぷしゅっ。


 彼女がどうしてモロちゃんの居場所がわかったか、その答えは彼のFacebookにありそうだった。

「本日もモラトリアム日和☆」

 先週投稿された最新の日記には、そのひと言とともにこの部屋のベランダからの景色を写したスマホの画像がアップされていた。

 地元民が見たら確実にそれとわかる公園や、グーグル検索で一発で出てくるであろう商業ビルもばっちり写っている。ストーカーの素質などなくても、居場所くらい簡単に割り出せてしまいそうだ。

 ――もしかして。

 その考えは、何度意識の底に沈めてもビーチボールのように浮き上がってくる。

 もしかして、これは彼の、SOS?

 無意識に、誰かに見つけて、連れ出してほしかった?

 この、狭い部屋から。

 あるいは、わたしという存在から。


 モロちゃんからは、短いメッセンジャーが届いたきりだ。


『今日はいきなりで本当にごめん。店の子に捕まって引き戻された……。親にも悪いので、そろそろ社会復帰することにします。俺の荷物は適当に処分しといてもらえるかな? 5月からずっと楽しかった、マジありがとう』


 それは彼だけできっちりと完結していて、わたしには何の選択の余地もなかった。

 ありがとう、そう返せば完全に終わってしまうのと同時に、自分たちがいかに脆い関係だったかを立証してしまうことになる。

 それが怖くて、わたしは何も返信できないままオジギソウに殺虫剤を吹きつけ続けた。

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