page15:もがく

 溺れてゆく。

 溺れてゆく。

 深い水の中で、わたしはもがく。

 何これ? 息が、息が苦しい。

 こんなに充足しているのに、なんで?

 どうして。



 流通し始めたマスクがコロナ以前の価格に近づいてきた8月半ば、会社から給与明細ではなく請求書が届いた。

「はあ?」

 思わず声が出た。

 休業手当が支給されていたはずがいつのまにか無給になっており、社会保険料の分だけマイナスになっているので支払えということらしい。


 会社に電話して、総務部と少し揉めた。


「すみませんこれ、この間の電話のとき言われてないんですけど」

『いえ、お伝えしてます』

 総務部の女性部長は、嫌味のない明るさで答えた。

「言われたんならちゃんと記憶してるはずです、わたし」

 他人に対してめったに感情的な物言いをしないわたしだけれど、勝手に無給にされたら誰だって怒る。

『メールは読んでいただいてますか?』

「メール……」

『緊急事態宣言が解除されて、こちらは6月からは平常業務に戻ってます。休業補償自体がもうないんですよ。ただ急すぎるので、自主的にお休みになっている方に関しましては6月までは特別休暇ということにさせていただいて、7月分から通常通りの欠勤扱いとなってるんですね。先日はそれを踏まえてお話ししたのですけれど……』

 そう言われると、返す言葉がなかった。

 愛欲と怠惰のぬるま湯に浸かっていたわたしは、面倒な会社からのメールの確認を後回しにしがちだった。ざっと目を通したものもあれば、未読のものもあった気がする。

 おまけに、今後についての返事も保留にさせてもらったまま放置していた。

 あまりに長く引きこもりすぎて、社会人としての常識をどこかに置き忘れたような生活になっていた。

 自分によるおのれの雑な取り扱いにぞっとした。


「……そうすると、8月も同様の扱いになるわけですか?」

『ええ。ご出社いただいて、保険料を上回る分就労なさっていただけないかぎりは……』

「『いただけない限りは』って、わたし『次を探すから探していいからね』って言われたんですけど、4月に」

『ええ』

「それって、ほとんど辞めろって意味だったと理解してますけど」

何分なにぶんこのご時世なものですから、契約を途中で終了とさせていただくことも充分にあり得たのですが、上のほうで話し合われて小岩井さんの意向を尊重することになったんですよ。でもさすがにこれ以上は……というお話です』

 後半はどこか同情するようなトーンになって総務部長は言った。わたしは彼女の形のいい鼻筋や垢抜けないヘアスタイルをぼんやりと思い浮かべた。

 会社。もう、海の向こうのように遠く思える。

 4月の時点では、本当に契約を切るつもりだったのだろう。ただ結局コロナの影響で採用活動も思うようにゆかず、便利な雑用係の首をつないでおくことにしたのだろう。

 それくらい手に取るようにわかる。

『あ、私と喋っててもあれなので、浜谷はまやさんと代わります?』

 直属の上司の名前を出され、我に返った。耐えがたいほどの羞恥とやるせなさが、急速に襲いかかってきた。

 口が勝手に動いた。

「いえ、すみませんもういいです。お世話になりました」


 そして、わたしは無職になった。

 当然の帰結ではある。


「いいんじゃね? どうせほら、失業保険降りるでしょ」

 退職を告げてもモロちゃんはほとんど動じなかった。

 ベッドに背中を預け、右手でスマホゲームをしながら左手で器用に激辛スナックを食べている。電子音と、チリパウダーのにおい。

「ううん、自己都合退職だと3ヶ月猶予だよ。そのかん無収入だよ」

「自己都合になるの? 会社都合じゃなくて?」

「うん。最後に『では自己都合退職ということで』って念押しされたし」

「まじかー。そういうのずりーよな。まあ金ならなんとかなるっしょ、節約しましょ」

 緊張感皆無の笑顔を向けると、モロちゃんはまたゲームの世界へ帰っていった。

 スナックで汚れた指先がカーペットでぬぐわれるのを見ても、何の感情も湧いてこなかった。



 溺れてゆく。

 溺れてゆく。

 深い水の中で、わたしはもがく。

 何これ? 息が、息が苦しい。

 あんなに充足していたのに、なんで?

 どうして。

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