page14:かすかな異変

『ごめん、里瀬……太った?』

 モニターに映しだされた雨月は開口一番そう言った。

「え、うん、まあ、少し」

 内心ぎくりとしていた。肩から上しか映っていないのに悟られるとは思わなかった。

『いやちょっとびっくりしちゃったよ』

「そんなに?」

『うん、だってちょっと二重顎だし……え、なんかニキビも酷くない? 気のせい?』

 放っておいたら音信不通になるわたしを心配して、顔を見て話したいと言いだしたのは雨月だった。オンライン会議に慣れている彼女とは違い、わたしはZOOMのアカウントを開設するところから始めなければならなかった。

 そうしてせっかくモニター越しにつながったのに、友はわたしの容姿ジャッジばかりしている。いつものふざけたおたく口調も使わずに。

『髪もそんなんだったっけ?』

「だってほら、美容院行くの自粛してるし」

『そっか……ま……いいやごめん』

 友にがっかりされている。その事実は、その後のたわいない近況報告の間もじわじわとわたしにダメージを与えた。


 引きこもり同棲を始めて2ヶ月半。7月が終わろうとしていた。

 緊急事態宣言が解除され、ずいぶんと遅れて給付金10万円が支給され、商業施設や飲食店の営業時間が平常通りに戻り、リモートワークをしていた人々がまた満員電車に詰めこまれて通勤する日々がやってきた。

 わたしの勤め先からも連絡があった。非正規だからと突き放しておいて、「会社としては平常の体制に戻りますが、小岩井さんはこの先どうされますか?」などと平然と言う。

 返事を保留している間に都内の感染者がまた爆発的に増えた。第二波というより、鎮火し損ねた第一波がまた燃え広がったようだ。


 このかん、わたしは6kgも体重を増やしていた。

 同棲を始めてしばらくの間は、モロちゃんがプロの料理を次々に作りふるまってくれた。わたしは大げさなくらいはしゃぎ、片付けをすべて担当し、お礼にコロナの影響による売上低迷のためセール価格になった高級スイーツをばんばんお取り寄せした。

 ふたりで季節外れの鍋もしたし、ホットプレートでたこ焼きやお好み焼き、ホットケーキも焼いた。みんな考えることは同じのようで、粉類がスーパーやドラッグストアから消えると、モロちゃんが実家のツテを頼って卸業者から取り寄せてくれた。

 梅雨が長引き、食材の買い出しに行くのをだるそうにしていたモロちゃんに「今日はコンビニ飯とかでよくない?」と声をかけてみた。「たまにはいいね」と彼も同意し、その日は添加物たっぷりの焼肉ペッパー弁当をふたりで食べた。そのジャンキーさが、なんだか異常に懐かしく感じられた。

 人は、一度やすきに流れたら簡単には戻れない。空腹時に簡単手軽に食べられて確実に美味しいファストフードやウーバーイーツを利用するようになり、わたしたちはほとんど料理をしなくなった。キッチンのシンクには軽くすすいだプラスッチック容器が積み上がり、ピサの斜塔のようにかしいでいる。


 部屋の隅には球状の埃がふわふわと舞い、バスルームの隅には黒カビが、コンロの換気扇のフードには油が溜まり、ふたりぶんの寝汗を吸っているのに外へ干せない布団はファブリーズをしてもごまかせないにおいがしてきた。

 取りこんだ洗濯物がふたりぶんごっちゃになって衣装ケースの上に乱雑に重なり、どちらが持ちこんだのかわからなくなったチラシやクーポンの類が冷蔵庫に秩序なく貼られ、ステッパーは部屋の隅で静かに埃をかぶっている。

 あれ? わたしの部屋、前からこんなふうだったっけ。心の奥の冷静な自分が警鐘を鳴らしている。

 最近はほとんどセックスも惰性でしている気がするが、それは自分が太ったことも大いに関係しているだろうし、大昔からここに住んでいるかのように振る舞うモロちゃんに何か非があるとは思えなかった。


「中3のときさー」

 彼の声は、バスルームの壁に反響した。

「うん?」

「学祭の準備で一緒にくす玉作ったっしょ。覚えてる?」

 ポリ袋の真ん中をハサミでまるくくり抜いて頭からかぶり、バスチェアに座って、モロちゃんに髪を染めてもらっていた。雨月に指摘されるまでもなく、カラーリングできずにプリンになった頭頂部はずっと気になっていた。

「覚えてないわけないじゃん。ってかあれで仲良くなったっていう認識なんだけど?」

「だよね」

 モロちゃんはほっとしたように言った。久しぶりに胸の奥がくすぐったくなる。

「あんとき俺、小岩井さんのこと好きでさ」

「でも彼女いたよね、モロちゃん」

「うん、いた」

 カラー剤が触れた地肌がすーすーする。ツンとくるにおいを気にする様子もなく、モロちゃんはわたしの髪の根本に揉みこむように薬剤を塗布してゆく。料理が上手い人は、やっぱり全般的に手先が器用なものなのだろうか。

「いたけど、あの瞬間、あの夕焼けの教室で俺は、小岩井里瀬に恋してたな」

「あたしもだよ」

 思わず大きくなった声が、また壁に反響する。顔を見ないからこそ言える気がした。

「あの真っ赤に染まった夕焼けの教室、モロちゃんも覚えてたんだ」

「そりゃあもう」

「嬉しい……」

「なかなか強烈だよね、あそこまで赤い夕焼けってのはさ。その中でかわいい子と共同作業とかもう、恋に落ちるしかないじゃんって感じ」

「彼女がいたから好きって言えなかったんじゃん、ずるいよ」

「あのときフリーだったら、なんか変わってたかな」


 その晩、ミルクティー色に染まった髪で、久しぶりに情熱的なセックスをした。

 半裸のまま眠りこんで深夜に目を覚ますと、スマホの画面にカクヨムからの応援通知が次々に届いているところだった。世界のどこかでまた誰かがわたしを見つけてくれたらしい。

 闇に浮かんでは消えるその青い光の美しさに、わたしはなかなかまぶたを閉じることができなかった。

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