page11:白が舞う

「それじゃ仕切りの意味ないですよー」

 わたしってこんな声だったっけ。

 久しぶりに人前で放った自分の声の響きを感じながら思った。

 老人はビニールシートをレジ側に突っこんだままこちらに顔をひねった。黄色っぽく濁った目がわたしを捉える。

「……はあ? なに?」

「感染予防のための仕切りじゃないですか。顔突っこまなくても声、届きますよ」

「はあ!?」

 皺だらけのわりに老人の肌は妙につやつやとしていて、その声にもハリがある。隣りのレジに並んでいた親子が振り向き、遠慮がちにこちらに視線を送っている。

「だから、今コロナウイルスっていうのがあって」

「なんなの、あんた!? ねえ、なんなのよ」

 老人はようやくビニールシートから頭を引き抜いた。レジ台に乱暴に置かれた「アタック抗菌EX スーパークリアジェル」のパッケージの角がぐしゃりと凹む。不思議と怖くはなかった。


「お客様、お客様」

 レジの女性店員がボタンか何かで知らせたのだろう、管理職と思しき大柄の男性店員がばたばたと走ってきた。気づけば四方から視線が向けられている。

 男性店員は女性店員から状況を聴き取り、すみませんすみませんと老人にもわたしにもぺこぺこと頭を下げながら如才ない笑みを投げてくる。体がぞわぞわしてきた。

「お客様はよろしければこちらで」

 誘導されて、離れたレジに進む。その背中に、

「年寄りいじめて楽しいのかねえ! ええ? どういう教育受けてきたのかね」

という老人の声が刺さった。


 食料品や生活用品でぱんぱんに膨れたレジ袋を両腕に提げると、さすがに自転車で来なかったことを後悔した。

 ワンダーフォーゲル部に入るくらい、わたしは自分の脚で歩くのが好きだ。でも今は、一刻も早く自宅にワープしたい。指の関節にきりきりと食いこむレジ袋の重み。牛乳と豆乳なんていっぺんに買うんじゃなかった。

 ああ、しかも先に銀行のATMに立ち寄るべきだったのに。さっき開いた総務からのメールに、「休業補償分の振込みをしました」と書かれてあったのだ。

 この荷物ではどこかを経由するなどとてもできない。マスクの下でぎりぎりと唇を噛んだ。


 横断歩道の信号で立ち止まったとき、湿った風がぶわりと強く吹いた。マスクが口元から浮き上がる。

「――あっ」

 繰り返し洗ったせいでゆるゆるになったゴムひもが耳たぶから外れたのだ。

 くるくると縦回転しながら、マスクは風にさらわれて空へと舞い上がる。その白が雲の白と同化するのを、わたしはなす術なく見上げた。

 10メートルほど左方向に飛ばされたマスクは車道にひらりと落下した。駆け寄ろうとしたとき、無意味に動かした右手からレジ袋の持ち手が離れ、中身をばら撒きながら舗道に落下した。

 よりによって食料品を入れていた方の袋だった。牛乳、豆乳、卵、柚子茶、シリアル、ジャム、食パン、たらこのふりかけ、スライスチーズ、ガーナチョコ、メイトーのなめらかプリン、かっぱえびせん。

 低くうめきながら地面にしゃがみこむ。これをどこまで除菌すればいいのだろうと考えると頭がくらくらした。あの老人の粘ついた視線が今になって蘇り、吐き気までこみ上げてくる。

 視界の隅でまた白が動く。再びふわりと浮き上がろうとしたマスクは、容赦なく走ってきた軽トラックに轢かれた。

 あれやばくね? うけるんだけどー。

 車道の反対側から声が聞こえた気がして顔を上げると、先程の密着カップルがこちらを見て笑っていた。


 じじじじ、じじじじ。

 玄関の前で荷物を下ろして鍵を探していると、スマホが振動を始めた。

 じじじじ、じじじじ。

「ちょ、ちょっ、待っ」

 ディンプルキーを回して玄関に飛びこみ、レジ袋を投げだしてショルダーバッグの中のスマホを探る。舗道にぶちまけた荷物が再び散乱する。ちゃんと確かめていないけれど、卵のひとつふたつは割れているだろう。

 じじじじ、じじじじ。

 財布の下に入りこんでいたスマホを苦労して引っぱりだし、画面に表示された名前を見てはっとする。LINE通話だった。「諸永司」。

 心臓が小さく跳ねた。


「……え、もしもし」

『おー、つながった』

 電話の向こうでモロちゃんは笑った。

『せっかくアカウント教えてもらったからかけてみました。もう寝てないんですね、小岩井さん』

「モロちゃ……」

 なんだろう。声にならない。言葉にできない。胸の奥の水位だけが上昇する。

『あの後、またお客さんからマスクもらっちゃってさあ。よかったらまじで届けに行っちゃおうかと思って』

 瞬間、さっきのマスクの白い残像が脳裏に蘇る。残り1枚になってしまったわたしのマスク。

「……」

『それとなんか石鹸……ハンドソープとね、えっと除菌ジェルなんかももらったよ。市民団体だかなんだかの人で、非常用の在庫抱えてたんだって。今あんまり売ってないでしょう』

「……」

『ついでにうちの店の食材も大量に余らしちゃってて、もし小岩井さんがこっちのコロナとか気にしなければ……ってあれっ、泣いてる?』

「——来て」

『えっ』

「届けに来て、今すぐ。お願い」

 玄関に膝を突き、ばらばらに散乱した荷物を見下ろしながら、わたしは哀願した。

『……行くよ。板橋だよね? すぐ行くよ』

 LINEアプリを経由して運ばれてくる同級生の声は、海の底で聴くラジオのような音質で耳に届いた。

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