page10:舌打ち
きしり。きしり。
眠りっぱなしだった体にエンジンをかけるように、わたしはステッパーを踏んだ。
きしり。きしり。
ステッパーが上下するたびに立てる音なのか、衰えていた筋肉や骨がきしむ音なのかわからない。
きしり。きしり。
きしり。きしり。
両足を交互に踏みこみ、温かな血が体中をめぐりだすのを感じながら、わたしはスマホを猛然と操作した。
ニュースのアプリを開き、世の中の動きをざっと確認する。
モロちゃんが言っていた通り、緊急事態宣言の適用期間は延長されていた。5月前半の記憶がほとんど夢うつつで、笑ってしまう。
通知の溜まっていたLINEやメールも開く。雨月、母、会社の総務、そしてカクヨム。生死の確認から業務連絡まで、軽重を問わずに同じテンションで返信を打つ。ひとつ返すごとに世界の輪郭がくっきりしてゆく気がした。
意外なところでは、雪下ひるねさんからも連絡が来ていた。TwitterのDMだ。
「リゼさん
こんにちは。カクヨムでお世話になっている雪下ひるねです。
『不要不急の恋人』、更新を心待ちにしております。言葉の選び方や、リゼさんの目を通した世界のリアルさがとても好きです。
ここのところ少しペースダウンされているようでしたので、もしかしてコロナにやられてしまったのではと心配になってしまいました。(催促ではないのですが、そのように感じられたら申し訳ないです)
まさに不要不急の応援DMでした!
雪下」
受信日時は4日も前だ。どうしてこんな心あるメッセージを放置できたのだろう。
惰眠を貪っていた自分を殴りたくなりながら、誤入力と修正を繰り返しつつ指を動かした。
しゃっきりと顔を洗い、久しぶりに丁寧な化粧を施した顔によれよれのマスクを引っかけて、約2週間ぶりに外へ出た。
若葉の緑が濃くなり、既に梅雨の気配すらある。
数メートル先を、腕をきつく絡め合った学生風のカップルがゆるゆると歩いている。今にも体の境界がなくなりそうな密着ぶり。
え、自粛中ってそういうの、だめじゃなかったっけ。キス、ハグ、セックス、今はまだ全部控えた方がいいんじゃなかったっけ。保菌していない保証なんて、誰にもどこにもないというのに。
非難がましい視線を向けながらも、心の端っこがひりひりしていた。その正体が羨望である事実から、わたしは必死に目を逸らした。
スーパーは前回来たときよりもさらに厳重な体制になっていた。
レジ近くの床には2メートルに少し足りないくらいの感覚でバミリテープが貼られ、レジ員は手術執刀医のような青いゴム手袋をはめている。「クレジットカードはお客様ご自身で端末に差しこんでください」と書かれた紙がレジ脇に貼られている。
せっかくバミリに合わせて前の人との間隔を空けて立っていたのに、勘違いした老人がわたしの目の前に割りこんできた。泥染めしたような色合いの、てらてら光る素材のシャツを着て、手には「アタック抗菌EX スーパークリアジェル」の詰め替えをつかんでいる。
すみません、並んでるんですが。言葉を舌の上で転がしているうちにレジの女性店員が「次のお客さまあ」と声をかけ、老人はスッと進んでしまった。思わず舌打ちが出る。せっかく酸素をめぐらせた体にストレスが宿る。
見るともなしに見ていると、老人はレジ員との間を仕切るビニールシートをぐしゃりとめくって向こう側へ顔を突き出した。
「これ、アタックNEOってやつで合ってるよね? 家内に頼まれたんだけど」
顔を近づけてそんなことを至近距離で訊いている。なんて迷惑。ストレスの濃度が高まる。
レジ員の女性が儀礼的に貼りつけている笑みを、ふいに剥がしてあげたくなった。
「ちょっと」
今度は、ちゃんと声が出た。
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