page5:黄砂の中を

 引きこもるにも、お金がかかる。

 兵糧なくして籠城はできぬとばかりに、重い腰を上げて買い物へ出かけることにした。


 マンションの外へ出ると、風が口元へすかすかに通ってきて、マスクの機密性がずいぶん失われていることがわかった。それでもないよりはましだろうと信じて歩く。

 年明け頃までは湯水のように消費していたマスクが、本当に手に入らなくなった。今はそのわずかな残り、たった2枚を消毒して洗って干してアイロンでプレスし、繰り返し使っているのだ。


 桜はすっかり葉桜になって、風は完全に南風だ。黄砂が飛んでいるのか空は少し黄色っぽい。

 ちょっと迷って着けてきた北見くんとおそろいの指輪が光る右手を、そっとポケットにしまいこんで歩いた。

 緊急事態宣言が出たためか、道ゆく人の数はめっきり減った気がする。それでも最寄りのスーパーに着くまでの間、ランニングする男性に犬の散歩をする女性、ゆったりと歩む老夫婦とすれ違った。

 老夫婦の妻の方以外は、みんなノーマスクだった。危機感を持っているのだろうかと不安を覚える。不要不急とは何なのかとあらためて思った。


「お一人様ワンプッシュでお願いします」と書かれたアルコールスプレーを手のひらに受けてから入店すると、スーパーは普通に賑わっていた。

 え、大丈夫? これ。「三密」までいかなくとも、二密くらいはいってるんじゃないの。窓ないし、レジの列の距離詰まってるし。

 なるべく人のいない通路を選んで遠回りしながら、カゴにどんどん商品を突っこんでゆく。食パンに、ロールパン。シリアル。牛乳。ヨーグルト。スライスチーズ。米はまだ家にあったはず。鮭フレークもほしいかな。


 台所用品コーナーへ移動すると、商品棚にぽっかりと空いた空間があって、それがキッチンペーパーがあったことを示していた。前回来たときも買えなかった。マスクは言わずもがなだ。気が塞ぐ。

 白髪の老人の客が若い女性店員をつかまえて、どうしてマスクが入荷できないのかと問い詰めている。不満をぶつける相手を間違えてるよ。マスクの中で溜息を漏らした。


 じじっ。ショルダーバッグのポケットの中で、スマホが短く振動した。カクヨムの通知か、北見くんか。

 すぐに取り出して確認したいけれど、スーパーのカゴを持った手でスマホにべたべた触らない方がいいとTwitterで読んだ。どのくらい神経質になるべきかわからないけれど、とりあえず我慢する。

 じじっ。じじっ。ああ、連続で何かを受信している。インストゥルメンタルにされたぺらぺらに薄い演奏のJーPOPを聴きながら、通路を歩く足を速めた。


 レジには天井から透明のビニールシートが吊り下げられ、店員と客の顔を仕切る仕様になっていた。前回来たときはなかった。はからずも、宝くじ売り場みたいな距離感が演出されている。

 緊急事態宣言が出てから、この店の従業員たちが総出で作業したのだろうか。靴を脱いでこの台に上がって、あるいは梯子をかけて、天井にあのネジを取り付けたのだろうか。それともそういう作業を請け負う専門の業者がいるのだろうか。


 システィーナ礼拝堂の天井画を描くミケランジェロを想像したところでレジ員の女性に会計額を告げられ、慌てて財布を取りだす。お札を抜こうとして、今後銀行へ行く回数を節減する必要性を思い、クレジットカードを金銭トレイにぽとりと載せた。

 カードが処理されている間、目の前に垂れ下がったビニールを見るともなしに見ていると、結構な量の飛沫が付着していることに気づいた。げっ、と声が出そうになる。

 この仕切りがなければ、店員さんがまともに浴びていたであろう唾や鼻水の飛沫。これに見合う額の給料を受け取っているのだろうかと勝手に心を寄せながらレジを後にした。


 スマホを見たい欲求と闘いながら、レジ袋を提げて来た道を戻る。黄砂のせいか、目が痒い。ウイルスよりはましなのだろうけど。

 帰宅するなり玄関に荷物を投げだすように置いた。手を洗おうとして、ハンドソープの詰替を買い忘れたことに気づき悶絶した。あとどのくらい持つだろうかとボトルをちゃぷちゃぷ揺らす。だいぶ心許ない。


 冷蔵品を手早くしまってからスマホを取りだす。青い色が目に飛びこんでくる。小説を書き始めて3日目、自分にとって青はカクヨムの色になった。緑がLINEの色であるように。


「雪下ひるねさんがあなたの作品をフォローしました。」

「雪下ひるねさんが応援しました。」

「雪下ひるねさんがあなたをフォローしました。」


 雨月の敬愛する書き手さんだ。思わず顔がほころぶ。雨月経由でわたしを見つけてくれたのだろうか。

 バナーをスライドしてサイトへ飛び、初めてユーザーフォローのボタンを押した。

 また少し、わたしの世界が動いた気がした。

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