第十二章 猟場

 旧社屋ビルがある新常盤橋周辺は、再開発から取り残された一画で、夜ともなると、人影はおろか、車が行き交うことも稀である。工事用フェンスに囲まれた旧社屋ビルは、黒々としたシルエットになっており、まるで廃墟のようだった。

 そんな旧社屋ビルの社員通用口の前に、佇む一人の人物がいた。それは黒いスーツ姿の田上で、キーボックスの暗証番号を押して鍵を開けたところだった。田上は扉を開け、中の様子を窺っていたが、意を決したかのように、館内に足を踏み入れた。一階ロビーの照明は点いている。守衛室の前を通り、更に奥に進んで、広いエントランスホールに出る。田上は辺りを注意深く見渡し、人影が無いのを確認してから呼びかけた。

「今着いた、どこにいる?」

無人のホールに声が響く。

「ここだ、申し訳ないが地下まで降りてきてくれないか、そこは、ガードマンが巡回してくる」

くぐもっているが、それは上月の声で、開け放たれた内階段の中から聞こえてくる。田上は顔を顰め、逡巡する素振りを見せたが、スーツの腋下のホルダーからナイフを抜き出すと、右手にしっかり握りしめ、地下への階段を慎重に降りて行った。


               ◇◆◇


 悟郎は旧社屋ビルの前に、シボレー・シルバラードを停車させ、周囲を見回す。江東区の悟郎の自宅兼事務所から、日本橋までは車で十五分足らずである。成城からはどんなに急いでも、一時間弱はかかるだろうから、紗希は当然ながらまだ来ていない。車から降り、フェンスの出入口に向かう。その鍵は開いていたが、社員通用口の扉は施錠されている。暗証番号「1050」を押すと、果たして開錠した。

 館内の照明は点いていた。悟郎は耳を澄まし、人の気配を探る。誰もいないようなので先に進み、エントランスホール出た。

「誰かいませんか?」

悟郎の呼びかけに答える者はいない。

「田上さん、居るんでしょう。いたら返事してください」

エレベーターの前まで来て、地下に通じる内階段の扉が開いているのに気付く。

 

 階段を降りた地下一階にも、狭いながらエレベーターホールがあり、その奥に倉庫や機械室に通じる扉があった。その扉がわずかに開いているので、そうっと開けて中を覗き込む。室内は、小さな灯りが点いているだけで薄暗い。中に入るのはさすがに躊躇われて、しばらくそうしていたが、目が慣れて部屋の様子が分かるようになった。悟郎はギョッとして目を凝らす。床に人が倒れていたからだ。 思わず駆け寄り、屈みこんで、うつ伏せに倒れている人物の顔を覗き込んだ。

「た、田上!」

爬虫類を思わせる特異な人相は、田上に違いなかった。改めて足元を見ると、そこには大量の血が広がっている。田上は完全に死んでいるようだった。

 その時、扉が閉まる音がした。悟郎が振り返ると、扉を背にして一人の人物が立っていた。薄暗くてよく分からないが、手術用のガウンのようなものを着ている。


「おやおや、これは意外なお客さんですな」

その声は聞き覚えがある。上月の声だ。

「上月さんですね。これは一体どういうことですか?」

「どうにもこうにも、見ての通りですよ」

「真面目に答えてください。この死体は田上さんでしょう?」

上月のふざけたような言い回しに、怒りが湧いてくる。

「そのようですね」

「あんたが殺したのか?」

「まぁそうなりますか、でも先に襲ってきたのは田上です。握っているナイフが証拠です。正当防衛ですから私に罪はありません」

言われて、倒れている田上の手を見る。確かに右手にナイフが握られている。

「これからどうするつもりだ、警察に自首するのか?」

上月の馬鹿丁寧な話し方に苛つき、悟郎の言葉は、ぞんざいになる。

「いや、それはできません」

「どうしてだ、正当防衛なんだろう」

「これは正当防衛ですが、他の事件はそうじゃない」

「他の事件?そうか、桐野さんを殺したのは、矢張りあんただったのか」

もしやと思っていたことが、現実となったかと愕然とする。

「えぇ、しかし、それだけではありません」

「なんだって、まさか・・・」

「はい、東郷社長を殺したのもこの私です。だから自首なんて出来ません」

「それじゃ、どうするというんだ?」

これから何が起こるのか、得体のしれない恐怖が湧き出てくる。

「知らない方がいいと思いますが・・・それでも知りたいですか?」

知りたくもあり、知りたくもない。悟郎は答えない。

「返事がありませんが、まぁお話しするとしましょう。あなたには、ここで死んで貰います」

「何を言う。そう簡単に殺されはしないぞ。あんたなんかに負けるわけがない」

最悪の展開になってきたが、ここは踏ん張りどころだ。

「何も分かっていないようですね。物騒極まりない田上を倒したのは、この私ですよ。何故、私が勝つことができたか知りたいですか」

「そんな話聞きたくない」

「まあそう言わずに。夜はまだ長い。あなたも死に急ぎすることはないでしょう。私が田上に勝ったのは、戦いの場所がこの地下室だったからです。ええ、この地下室は、私の猟場なんです。猟場、分かりますか?狩人が獲物を仕留める場所のことです。私はね、この地下室で過去に何人も人を殺しています。ホームレスだったり、OLだったりいろいろですが、ここに引き入れて電気を消した闇の中で、いたぶりながら殺すんです。ええもう、一度やったらやめられません。この猟場のどこに何があるか、トラップをどこに仕掛けてあるか、闇の中でも手に取るようにわかるんです。だから田上にも勝つことができたんす。失礼ですが、あなたクラスの獲物なら仕留めるのは、訳無いことです」

「警察は甘くないぞ。あんたが危険な人物だってこと、我妻刑事は既に掴んでいる」

「警察は死体があがらなきゃ動かない。ホームレスやOL達の死体と同じように、あなた方の死体は、このビルの裏にある焼却炉で始末します。実は、この医療用のメスを使って、田上の死体をバラバラにしようとしていたんです。そこに、あなたがいきなり現れたので、私もいささかびっくりしました。おかげで、二人分の死体を処分しなければならなくなりました。やれやれです」

上月は、医療用手袋をした手に持つメスを、顔の高さまで上げて軽く左右に振って見せた。

「いい加減なことをいうな。そこをどいて、扉を開けろ」

「扉は開けられませんが、幕を開けることはできますよ。さぁ、それでは、ショウの開幕といきますか」

照明が消え、周囲は真っ暗になる。上月が照明のスイッチを切ったのだ。

 

 悟郎はスマホを取り出して電源をオンにした。画面の明かりで、悟郎の手元が闇に浮かぶ。

「百十番通報はできませんよ。ここは古いビルの地下室です。電波はまったく届きません」

暗闇の中、上月が近づいてくる気配がする。

「くそ!」

悟郎は、スマホを懐中電灯代わりにして、上月がいると思われる辺りを照らす。

「ほぉ、そんな使い方があるんですか。でもどれだけ電池が持つんですかね」

スマホの光りが、わずかに上月の姿をとらえる。手にしたメスがきらりと光る。

「うるさい!」

悟郎は闇の中、後方に動こうとして、何かに躓きよろめいた。その拍子に、手にしたスマホが手を離れ床に転がる。

「うっ!」

悟郎は、左の足首の痛みにうめき声を出す。何か細く硬い線が、床に張られているようだ。

「さっき言いましたよね。トラップが仕掛けられているって。ピアノ線をあちこちに張り巡らせています。怪我をしたくないなら、あまり動き回らない方がいいですよ」

床に転がったスマホの明かりが消え、また暗闇に戻る。

しばらく沈黙が続いた後、悟朗が口を開く。

「田上をどうやってここまで、誘き出したんだ?」

「誘き出したんじゃありません。田上が勝手にここへやって来たのです。田上は、警察に密告したのが私と見抜いて、犯人との見当を付けたようです。そこまではさすがですが、私を甘く見過ぎました。私と会って腕ずくで白状させようとしたんです。会いたいとの申し入れがあったので、このビルだったら会ってもいいと返事をしました。腕に自信のある田上は、承知してここまでやって来たという訳です」

その間も、悟郎は慎重に足元を探りながら、少しでも上月から離れようと移動する。

「そ、そうか、それじゃ桐野を殺した理由はなんだ?」

「何か話さなければ怖くて仕方がないのでしょう。ほとんどの人がそうでした。暗闇の中での沈黙には耐えられないようですね」

「そんなんじゃない。どうしても気になって仕方ないから聞くんだ」

「はいはい、気になるならお話ししますよ。疑問を持ったまま死ぬのは、嫌ですものね。桐野は私と同期入社でね。ライバルでニューヨークでも一緒だった。でも私の性的な嗜好を知った桐野は、そのことを会社の上層部に告げ口して、私を競争相手から引きずり降ろしたんです。お陰で私は、ちっぽけな子会社に追いやられ飼い殺しです。あぁそれから、桐野のことだから、紗希さんにも告げ口しているかもしれませんね」

「それで桐野を殺したのか。しかし、あの用心深い桐野をどうやって京橋のホテルに誘い出したんだ」

「それは、勝手ながら、あなた方を利用させて貰いました。私もあなた方と共に、紗希さんから相談を受けていると桐野に信じ込ませたんですよ。その上で、我々の内、一人を取締役に迎え入れるなら、後継者を桐野常務にすることを、紗希さんも了承すると伝えたんです。桐野はそのオファーを承知しました」

「我々って、俺と史郎、それにあんたということか?」

「えぇ、そうです。あなた方を絡ませたのがポイントです。そうすることで、桐野は私の申し出を信用したのです」

「意味が分からない。俺が聞きたいのは、どうやって、ホテルに誘き出したかということだ」

「まぁ、そう急かないで下さい。順を追って説明します。さて、先ほどあなたが言ったように、桐野は用心深い男です。だから、桐野は、紗希さんに会って確認したいと言ってくるに違いないと思い、次の手を準備していたのです。つまり、ホテルのレストランで、桐野、紗希さん、それに私が立会人ということで、三人が会食して相互確認をするという仮の舞台を設えたんです。そして、その当日、三人が会食する前に、二人だけで内密に会いたいと申し入れました。桐野は私が金を要求してくると思ったのでしょう、渋りながらも、私の申し入れを承知したのです。それとなく、金銭の要求を匂わせたておいたのが、見事に功を奏しました」

「なんて悪賢いんだ」

悟郎は呻き声をあげる。

「さぁ、次は東郷を殺した方法をお教えしましょう。まだ死にたくないのなら是非聞いて下さい。私が一番苦心した殺人ですからね」

自分が苦心して作った楽曲を、誰かに聴いて貰いたいとでも言うような口振りである。

「あぁ、聞いてやる。話したくて仕方ないんだろう」

悟郎としても、なんとか時間稼ぎがしたい。

「ご配慮有難うございます。それでは先ず、何故、東郷を殺したか説明しましょう。東郷は私を子会社に追いやり、あの手この手で、私を退社するよう仕向けました。しかし、私は意地でも会社は辞めないと決意し抵抗したので、会社側も無理やり辞めさせることは断念しました。その代わりに徹底的に無視する策に出たのです。捨て置かれたのです。私は、まさに、社畜でした」

「それを恨んで殺したのか?」

「二〇歳近くも年の離れた紗希さんを、強引に自分のものにしたのも許せないことです。だから、いつか殺してやると心に誓い、色々と計画を立てました。社畜だって夢は見るんですよ。復讐と言う甘い夢をね」

「俺には理解できない」

「ドリーム・カム・トゥルー、夢は必ず叶えられるって言うじゃないですか。私の夢もいつか実現すると信じて、辛い日々をやり過ごしていたんです」

「常軌を逸している。あんたは殺人に取り憑かれているだけだ」

殺すことを生き甲斐にするなんて、狂気以外何物でもない。

「あなたのそのご指摘は、甘んじて受け入れます。それはともかく、東郷をどのように殺したかですが、これは簡単ですね。東郷をこのビルに誘き出し、七階のあの窓から突き落としたんです。苦心したのは、このビルに如何に誘い出すかという事でした」

暗闇に中、憑かれたかのような上月の声が、少しずつ近づいてくる。

「私は周到に計画を巡らし、東郷が罠にかかるのを待ったのです。ええ、それは辛抱強くね。まず私がしたのは、紗希さんと桐野が不倫していると東郷に思わせることでした。紗希さんと桐野の不倫に関する匿名の手紙を何度も送り付け、その手紙には、二人が密会していると思われるような写真も同封しました。社内に噂も流しました。そうしているうちに、高速道路を走行中の運転手が失神すると言う、あの事故があったのです。その話を聞いたとき、これは千載一遇のチャンスだと直感しました。東郷は、紗希さんと桐野が車に一緒に同乗していることを知って、今まで以上に疑惑の念を強めているに違いないと踏んだのです。そこで、決定的な証拠写真があると言って、あの日、旧社屋ビルに誘き出しました。この場合も、金が目的と見せかけたのが功を奏しました。金銭目的なら、自身の身の危険には注意が行かないものですからね」

「東郷社長は来ないとは思わなかったのか?」

「そこは賭けですよ。実を言うと、来る、来ないはヒフティ・ヒフティと思っていました。あの夜、物陰に隠れて長い間待ち続けたんですが、それはそれで、とても充実した時間でした。そして、私は賭けに勝ったんです。東郷はやってきました」

「あっ!くそ!」

右腕に鋭い痛みが走る。

「メスがどこかに当たったようですね。致命傷でないといいのですが」 

「ほんのかすり傷だ」

「それは良かった。あっさり死なれては張り合いがありませんからね」


 小さな炎が辺りを照らした。悟郎がライターを点火したのだ。悟朗は右手に持ったライターを前に突き出し、左手で、血が流れる上腕部を抑えた。

「おやおや、今度はライターですか? どうせ使い捨ての安物でしょう。すぐに燃料切れですよ」

炎の光の中に、上月が現れる。右手にメスを握っている。

「それ以上、近づくな」

「おや、腕に傷を負ったようですね」

傷ついた手が震えて、ライターの火が消える。

「ほほ、もうガス欠ですか。いやに早いですねえ」

震える手で、何回か点火してやっと火が付く。悟郎は炎が消えぬ間に、床に散らばっている紙屑を拾い上げ、火をつけた。紙はめらめらと燃えて灰になる。悟郎は、とにかく明かりが欲しくて、辺り一帯に散乱する紙屑を搔き集めて火をつけた。それは、小さな焚火となって周囲を照らす。悟朗は、更に紙屑を集めて火に投じる。炎はかなり大きくなるが煙が出て、悟郎は咽る。

「いろいろと考えますね。でもこんなところで焚火をしてもらっては困ります」

「そうかい、困るのか。それなら、もっとやってやろうじゃないか」

悟郎は、周囲に積んである段ボールから書類を引っ張り出して炎に投じたり、周囲に垂れ下がっている襤褸布などを放り込こんだりする。炎は更に大きくなり天井に届く勢い。煙がもうもうと発生し充満してくる。

「やめろ。それ以上燃やすと本当の火事になる。私は逃げ出すことができるが、あなたは逃げられない。ここで焼け死ぬぞ!」

「構わない。あんたに切り刻まれて死ぬより焼け死んだ方がましだ。焼け跡から死体が二つ見つかりゃ、立派な殺人事件だ。あんたは間違いなく逮捕される」

「さぁそれはどうでしょうかね。ともかくこれ以上ここにはいられません。私はこれで失礼しますよ」

扉が開閉する音がした。上月はここから逃れ出たのだろうとホッとするも、煙が濛々と立ち込め、息をすることも出来なくなってきた。悟郎はハンケチで口を押え、姿勢を低くして地下の非常出口を探すが、炎と煙は増すばかりである。意識が遠のき、悟郎はその場に倒れ込んだ。


               ◇◆◇


 紗希が、悟郎よりも四十分ほど遅れて、旧社屋ビルに到着した。暗証番号を入力して通用口から館内に入る。エントランスホールは静まり返っており、人影はどこにも見当たらない。田上も、悟郎もそこにいないことが不安を煽る。七階に行ったのかと思いエレベーターに乗ろうとして、その脇の内階段の扉が開いているのに気付く。地下の灯りが点いている。紗希は逸る気持ちを抑えて、慎重に一歩一歩、地下への階段を下りた。


 地下のエレベーターホールも無人であった。しかし微かだが、扉の向こうから、人の話し声が聞こえてくる。そっと扉に近づき耳を当て、中の様子を伺う。

悟郎と上月らしい声が聞こえるが、何を言っているのかまでは分からない。紗希は、もっとよく声が聞こえるように、扉をわずかに開けた。話が聞き分けられるようになり、紗希は戦慄した。上月の話すことは、あまりにも恐ろしいことだったからである。

 悟郎がライターで紙屑に火をつけ、次第に燃え広がるのが見えた。一刻も猶予がならない。史郎に助けを求めようと、紗希は急いで一階に上がり、スマホを取り出し電話した。

〈お願い出て〉

願い空しく留守電になる。

「紗希です。今、旧社屋ビルにいます。矢吹さんが危ない。警察に連絡して」

必死の思いで、スマホを操作し、メッセージを残した。そして、守衛室のロッカーから地下脱出口の鍵をとると、館外に走り出た。


 地下非常出口に鍵を差して扉を開け、地下に入る。煙がどっとあふれ出てくる。一瞬ひるむが、扉の奥に向けて叫ぶ。

「矢吹さん、悟郎さん、いるなら返事をして!」


               ◇◆◇


 気を失いかけた悟郎の耳に、何か聞こえる。声がする方に、這って進む。新鮮な空気が流れ込んでくる。

「ここだ、ここにいる」

紗希は床に倒れている悟郎に走り寄り、抱え起こす。

「悟郎さん、大丈夫?確りして」

「あぁ、大丈夫だ」

「歩ける?早くここから逃げなきゃ」

紗希は肩を貸して、悟郎が立ち上がれるよう支える。悟朗はどうにか立ち上がり、二人は縺れるようにして地上に出た。そして、二人、支え合いながら、焼却炉の近くまで来て倒れ込んだ。


「血が流れている」

紗希はハンケチで、悟郎の上腕部をきつく縛る。

「上月にメスで切られた」

煙で痛めた悟郎の声は、しわがれている。

「紗希さんにとって辛い知らせがある」

告げるのは悟郎にとっても辛い。

「兄さんが死んだ。東郷社長も桐野常務もみんな、上月に殺された」

紗希はあまりの衝撃に、声を上げることもできない。その眼に涙が溢れだした。


 この間にも旧社屋ビルの地下室の火は燃え盛り、一階の窓からも小さな火の手があがり、寄り添う二人の姿を照らした。しかし、ビルの壁から少し離れた焼却炉の裏側は暗い。その暗闇の中に蠢く人影があった。

 その人影は、悟郎と紗希の背後に忍び寄り、手にしたメスを振りかざした。紗希が気配を感じて顔をあげる。

「危ない!」

悟郎は紗希の叫び声に辛くも反応して、体をかわした。悟郎に向けて差し出されたメスは、わずかにそれる。手術用のガウンを身に着けた上月は、冷徹な外科医のように無表情で、更に迫ってくる。悟郎は気力を振り絞り立ち上がり、紗希をかばって身構えた。

「この火事だ、もうすぐ消防と警察がやってくる。どうせ逃げ切れない。あきらめて自首しろ」

遠く、複数の緊急車両が発するサイレン音が聞こえる。

「おっしゃる通りです。どうせ逃げ切れません。それなら、ついでに、あなた方も殺してしまおうって思ったわけですよ」

「罪をさらに重ねるつもりか。いいかげんあきらめたらどうだ」

上月は襲撃の手を緩めようとしない。悟郎と紗希は追いつめられて焼却炉を背にする。

「私はね、東郷、桐野、田上の他にも沢山の人を殺してきたんです。捕まれば当然死刑です。あなた方を殺しても、あきらめて自首したとしても、いずれにせよ死刑は免れないのです」

上月が繰り出したメスが悟郎の腿を傷つける。ピアノ線で痛めた足首、メスで切られた上腕、満身創痍となった悟郎が、もはやこれまでかと、覚悟を決めたその時、駆け寄ってくる複数の足音が聞こえてきた。


「あそこだ!あの焼却炉のところに誰かいるぞ」」

「後ろに回れ、取り囲むんだ!」

口々に叫びながら警官たちが、周囲を取り囲んだ。

「動くな!警察だ、武器を捨てろ」

息を切らして駈け付けた我妻が、立ち竦む上月に向けて一喝した。その姿を見た途端、緊張の糸がぷつりと切れ、悟郎は意識を失った。

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