第十一章 京橋メトログランドホテル
十月七日、夜の七時少し前、京橋メトログランドホテルのフロントで女がチェックインしている。眼鏡を掛けている上に、マスクをしているので素顔は分からないが、黒のスカートスーツ姿でキャリーバッグを引いており、東京出張に来た地方のキャリアウーマンのような出で立ちだった。フロントでカードキーを受け取るとエレベーターホールに向かった。
女は、九階でエレベーターを降り、キャリーバックを引いて、九一三号室の前に来ると、カードキーを取り出し部屋に入った。
七時半頃、桐野は九一三号室の前に立っていた。ドアの扉が少し開いたままになっているので不審に思ったが、ドアチャイムを押してみる。数回押しても返事がないのでドアを開けて中に入った。入ったすぐの右側には、洗面室、トイレ、浴室などがあり、その先にツインのベッドがある造りの部屋であった。桐野は奥に進み、様子を伺うが、部屋には誰もいない。と、その時、背後でドアが閉まる音がしたので振り返る。そこには女が立っていた。
「あっ!失礼しました。部屋を間違えたようです」
桐野は、無断で女性の部屋に入ってしまったことに慌てる。女は無言でその場に立ち尽くしている。
「チャイムを何度も押したのですが、返事が無くて・・・」と言いかけて桐野はギョッとして息を飲む。その女の手に光る鋭利な刃物を見たからだ。医療用のゴム手袋をした手に握りしめているのは、メスであった。
女が近づいてくる。桐野は右手を前に差し出し、身を守りながら後ずさる。女がスッとメスを一閃させた。桐野の手の平から血が流れだす。桐野は恐怖と痛みで顔を引き攣らせ尚も後退するが、間近に迫った女の顔を見て叫んだ。
「お前は!」
女はにやりと笑うと、踏み込み、メスを桐野の胸に深々と突き刺した。
女は、桐野が死んだのを見届けると、慌てる様子もなく、返り血を浴びた服を脱ぎ捨て、キャリーバックから取り出した服に着替えた。脱ぎ捨てた服は、キャリーバッグに無造作に押し込む。傍らの鏡に映った自分の顔を覗き込み、メイク直しをして、眼鏡とマスクを掛けた。最後に、辺りを入念にチェックすると、キャリーバッグを引いて、部屋を出て行った。
◇◆◇
悟郎はスマホの電話コールで目を覚ました。スマホをオンにして時刻を見ると七時少し前である。
「おい、今朝のニュース見たか」
いきなり用件を言うのは、史郎の癖である。
「ちょっと勘弁しろよ、日曜の朝位ゆっくり眠らせろよ」
「そんなこと言っている場合か、桐野常務が殺された。昨日の晩のことだ。ネットニュースで速報が流れているからすぐ見てみろ」
驚いた悟郎が質問するする間もなく、史郎は、それだけ言うと、勝手に電話を切った。
〈まさか?〉
半信半疑で、ニュースサイトを開く。するとトップニュース欄に“ゼネコン東郷建設の役員とみられる他殺体発見される”との見出しがあるではないか。慌ててクリックする。
≪八日午前十一時ごろ、東京都中央区京橋のホテルの客室内で、男性が血を流して倒れているところを、ホテルの従業員が発見しました。通報を受けた警察が駆け付け、検証の結果、殺人事件と断定され、日本橋警察署に捜査本部が設置されました。捜査関係者によると、男性は胸部を鋭利な刃物で刺されており、死因は外傷性ショック死、死亡推定時刻は前日七日の夜八時ごろ、被害者は所持品から東証一部上場の東郷建設の常務取締役桐野達郎さんとみられるとのことです≫
「見た、大変なことになったな」
“見たら連絡しろ”というのが史郎の意図だと知っているので、すぐに電話する。
「犯人は、もしかして田上じゃないか?お前、桐野常務に間違われて脅されたんだろう?」
ニュースを見て、最初に思ったのは正にその事だった。田上は東郷尚彦殺人事件でも容疑者と目されている。
「あぁ、遺体には、鋭利な刃物で胸を刺された傷があるらしい。俺も田上にナイフで脅された」
「捜査の進展具合では、紗希さんに警察から連絡が行くかもしれない。おまえ、日本橋警察の刑事と知り合いがいたな」
「あぁ、おまえがいつか、アポ取りしてくれた我妻刑事だけど」
「その刑事に詳しいこと聞いてくれないか」
「了解、もし警察から何か言ってきたら、お前、弁護士なんだから紗希さんを助けてやってくれ」
「勿論だ、とにかく事件の詳細を掴むことが先決だ。情報収集よろしく頼むぞ」
史郎とのスマホを切って、悟郎は紗希にすぐさま電話した。電話に出た紗希は、事件についてまだ知らなかったようで、悟郎の知らせに驚き「えっ!桐野さんが」と言って絶句した。
「もしもし紗希さん大丈夫?」
衝撃が大きかったのだろうと、悟郎は紗希を気遣う。
「犯人は誰か分かっているのかしら?」
ややあって、紗希がかすれ声で聞いてきた。
「いや、まだニュース速報を見ただけで、皆目見当がつかないんだ。所轄は日本橋警察だから、我妻刑事に聞けば、詳しいことが分かると思う」
「そうね、どんなことでもいいから何か分かったら教えて」
「あぁ、分かった。それから、警察から連絡があるかもしれない。我妻刑事は紗希さんの兄さんに関心を持っているみたいなんだ」
「やはりそうなのね。警察に追われていることは、兄が良く行くバーのママから聞いていたわ」
「バーのママ?」
話しの前後がよくわからず聞き返す。
「神保町に兄が毎晩のように行くバーがあるの。兄の携帯に何度も連絡を入れたのだけど、繋がらないので、そこに電話したら、兄が警察に追われているって聞かされて」
「そうか、とにかく俺は我妻さんに会って情報を仕入れてくるよ」
「もし、警察から連絡があったらどうしたらいい?」
「その時は、弁護士と相談して回答すると答えておいてくれないか。史郎に紗希さんを助けるよう言ってある。何かあったら遠慮せず、俺か史郎に連絡して、史郎の携帯の電話番号は、後で知らせる」
「ありがとう、そう言ってくれると心強いわ。何かあったら連絡する」
次に電話をしたのが、我妻であるが案の定「今は忙しくてそれどころじゃない、電話でいちいち説明などしていられない」と言いつつも「俺からも頼みたいことがある。今晩か、明日の昼頃、日本橋警察署まで来てくれんか」と、自分の要求は突き付けてくる。悟郎は少し考え、明日の昼に行くと告げて電話を切った。
◇◆◇
十月十日、日本橋警察署の前は、報道陣でごった返していた。報道各社のテレビカメラが玄関口を取り囲むようにしており、数人のレポーターがマイクを片手に実況中継をしている。それらの人垣をかき分けるようにして暑内に入り、受付で我妻刑事と約束していると告げて、応接に案内して貰った。
「やぁ、待たせたな」
徹夜明けなのだろう、腫れぼったい目、無性ひげの我妻がやってきて声を掛ける。
「お疲れの様ですね」
「いや、こういうのは慣れている、毎度のことだ。ところで電話でも伝えたが、あんたに頼みたい事がある」
いつものように用件をすぐに切り出す。
「はい、なんでしょう」
何を言われるかと、悟郎は身構える。
「これまで参考人として行方を追っていた田上を、重要参考人として、厳しく行方を追及することになった」
「重要参考人って、田上が犯人?」
「いや、犯人と決めつけた訳じゃない。極めて犯罪の嫌疑が濃いと我々が判断した者を重要参考人と言うんだ」
「犯罪の嫌疑が濃い理由を教えてくれませんか?」
紗希に説明してあげねばならない。
「あんたが、田上は工藤理之助の養子だと教えてくれたんで、奴の本名が分かった、工藤壌(くどうゆずる)と言うのが戸籍上の名前でな、その名を前歴照会に掛けたんだ。すると恐喝罪で逮捕された前歴があることが分かった。尤も、その事件は不起訴処分になったので、前科持ちという訳ではない。しかしだな、その事件の関係者を調べて行くうちに、田上は、養父の理之助が投資顧問をしていた暴力団や右翼などとの連絡役を務めるほか、理之助の用心棒的な仕事をしていたことなど、相当手荒いことも辞さない危険な男と分かった」
「そんな前歴があっただなんて、俺も知りませんでした。」
「それに、あんたも知っての通り、東郷社長の転落死に関して、田上が犯人だとするタレコミもある。更にだ、我々が手を尽くして捜査しても、行方が分からない。となれば、田上は逃亡を図っていると疑われて当然だ。どうだ、これだけ揃えば、疑うに十分だろう」
「なるほど、そうですか」
これだけ根拠を並べられたのでは、肯定するより仕方ない。
「そこでだ、田上の妹である社長夫人に、捜査の協力を頼みたいという訳だ。それをあんたから伝えて欲しい。下手な隠し立てや、協力拒否は、田上の嫌疑を一層強くすると共に、社長夫人の立場も悪くするってな」
「捜査への協力って、事情聴取とかそういうことですよね。でしたら、友人の弁護士に相談しないことには、何とも言えません」
「おぅそうだったな、うちの署長と懇意にしている弁護士がいたんだったな」
「えぇ、現在、彼は、紗希さんの法律顧問をしています」
「それは面倒だな、まぁ、社長夫人に言うだけは言っといてくれ。あくまで任意であって無理強いはしないとな」
署長と懇意にしている弁護士がついていると知った我妻は、強面姿勢を一変させた。
「はぁ、一応、我妻さんの要請は、紗希さんにお伝えします」
我妻の要請が大分トーンダウンしたので、ホッとする。
「あぁ、ところで、前にもちょっと聞いたが、旧社屋ビルの管理会社の社長なんだがな」
「上月さんですか?」
「うむ。実はな、古参刑事に聞いたのだが、その昔、日本橋周辺で起きた、OL失踪事件の参考人リストに上月の名前があったというのだ。個人の名誉にも関することなので詳しいことは言えんが、どうも気になってな」
参考人リストとは、容疑者候補をアップしたものであろう。上月を知る悟郎には、とても信じられないことである。
「何かの間違いじゃないですか?あの時も言ったように上月さんは、実直な人ですよ」
「そうかもしれん。しかし何か引っかかるものがあるんだ。そこでだ、社長夫人と上月はニューヨーク時代からの長い付き合いなんだろう。上月に関して何か知っていることがあれば、何でもいいから聞いておいて欲しいんだ。この頼みなら社長夫人も承知してくれるよな」
「分かりました、私から聞いて我妻さんに報告します」
「うむ、さてと、こちらの用件はこれで終わりだ、そちらの用件を聞こうじゃないか」
「そうですか、それじゃお忙しいところ申し訳ありませんが、今回の事件について、出来るだけ詳しく教えてくれませんか?」
「矢張りそう来るか。話してやるが、これはあくまで捜査協力者に対する情報提供ということだ。言わずもがなだが、他言無用だぞ」
我妻が話してくれた事件の詳細は、以下のようなものであった。
≪十月八日、十一時頃、部屋の清掃に入ったスタッフが、血を流し床に倒れて男を発見し、警察に通報した。致命傷は、鋭利な刃物による胸部の刺し傷、心臓まで達していた。死因は、外傷性ショック死。致命傷の他に、防御傷と思われるものが右手にあった。死亡推定時刻は前日七日の二十時前後、現場に遺留物は無く、犯人と思われる指紋も検出されなかった。
事件のあった部屋をチェックインしたのは、眼鏡とマスクを掛けた黒のスカートスーツ姿の女で、時刻は十九時半ごろであった。フロントと、九階エレベーターホールの防犯カメラに、同じ格好をした女がキャリーバックを引いて歩いているところが映っており、その記録から、女がホテルを去ったのは二十時少し過ぎと推定される。チェックイン時に記入された、宿泊者名簿の氏名、住所は出鱈目であることがすでに判明している≫
「それじゃ、犯人は女ということですか?」
ほんの一瞬ではあるが、紗希のことが脳裏に浮かび、冷やりとする。
「いや、それがそうとも限らんのだ。チェックインに立ち会ったホテルマンの供述から、女装した男の疑いも出てきたんだ。ホテルマンの感ってやつは、大したもんでな、眼鏡とマスクをしていても、女装かどうかは、なんとなくわかるらしい」
「犯人は男かもしれないのですね」
「そうだ、防犯ビデオを検証した結果、犯人は女装した男性の可能性もありうるということになった。その女と、田上の背格好がほぼ同じということも重要な点だ。そういう次第で我々は、田上を藤堂及び桐野殺害事件における重要参考人として行方を追うことにしたんだ」
報道陣でごった返す、日本橋警察署を出て、悟郎は大きく息を吐いた。
「何か妙に疲れた」
悟郎は呟き、史郎に電話をするべく、スマホを取り出した。
◇◆◇
警察を出た悟郎は、その足で史郎の法律事務所に向かった。至急会って相談したいと無理を言って押し掛けてきたのである。
「今日は、とにかく忙しいんだ。手短に話せよ」
史郎は応接に入ってくるなり、話を急かせる。
「了解、それじゃ要点を話す」
悟郎は、田上が重要参考人とされた経緯と桐野殺害事件の顛末を話した。史郎は黙って聞いていたが、眉間にしわを寄せ難しい顔をしている。
「しかし、重要参考人とはな」
「あぁ、俺も驚いた。重要参考人というのは、ほぼ容疑者ということなんだろう?」
「容疑者という訳ではないが、押収、家宅捜索、逮捕状申請など何らかの法的な手続きが開始された時点で、重要参考人は容疑者、つまり被疑者となるんだ」
なるほどそういうことかと悟郎は得心する。
「紗希さんは、捜査に協力するよう要請された。どうしたらいい?」
紗希に会ったら、警察への対応について説明する必要がある。
「原則としては、捜査に協力するべきなんだが、親族に限っては、協力しなくとも許容される事が多い。紗希さんと田上は兄妹だから、拒否しても、責められたり立場が悪くなったりはしないだろう。紗希さんの気が進まないのなら、断っても差し支えない」
「分かった、そう伝える。紗希さんは兄さん思いだから、警察に協力するなんて出来やしないさ」
「しかし、逮捕状が出ると、強制捜査が可能になる。警察は家宅捜査や、スマホの押収なども出来るようになるので、覚悟しておいた方が良い。紗希さんに、そう伝えておいてくれ」
「あぁ、伝えるよ。とにかく俺は、これから紗希さんのところに行ってくる。何か動きがあったらその都度連絡する」
悟郎は、成城の東郷邸に向かうべく、史郎に別れを告げた。
◇◆◇
成城の東郷邸に行き、田上が重要参考人となった経緯や、桐野殺害事件の顛末を、紗希に話したが、思いの外、冷静に聞いてくれた。警察への捜査協力については、悟郎が思った通り、犯人を前提とした捜査には、協力したくないとの意向であった。但し、上月に関する我妻の依頼については承知して、以下のように答えた。
「ニューヨーク時代のことだけど、桐野さんから“上月は変質者だから注意した方が良い”と言われたことがあったわ。地元のコールガールを、上月さんが傷つけたとして、マフィアから高額な慰謝料の請求があったというの。あまりにも酷い話だし、桐野さんは、競争相手を蹴落としてでも這い上がろうとする性格だから、私を上月さんから遠ざけるための策謀と思って信用しなかった。だけど、今思うと、それは本当だったのかもしれない」
紗希の話を聞いて、悟郎にも思い当たるものがあった。
「上月さんは、OL失踪事件の参考人リストに載っていたらしい。若い女性が失踪したとなると、変質者を先ず、リストアップするんじゃないのか、つまり上月さんは、変質者として警察からマークされていたということにならないか」
二人はしばらく黙り込み、それぞれが思案を巡らす。
「ずっと考えていたんだけど、警察はどうやって、兄の行きつけのバーを知ったのかしら」
ややあってから、紗希が疑問を投げ掛けた。
「それは、タレコミがあったからだろう」
密告の書面に、田上の立ち寄り先が書いてあったと、悟郎は推測する。
「でも、兄が、そのバーの常連客だということを、知っている人は、ごく限られているわ。私と桐野さんと上月さん位と思う」
「もしそうなら、消去法的に考えて、タレこんだのは上月さんということになる」
「あぁ、何だか分からなくなってきた。今まで、上月さんは、実直で信用置ける人と思ってきたのに」
二人は再び黙り込んでしまう。上月への疑惑は、益々深まるばかりだった
◇◆◇
紗希から電話があったのは、数日後の十月十四日の夕方であった。
「今さっき、美容室から戻ったんだけど、兄から留守番が入っていたの。これから上月さんと会いに、旧社屋ビルに行くって内容だった。私心配で」
「他には何か言ってなかった?」
「心配を掛けていることと思うが、自分は犯人ではない、犯人は上月だって。でもこのままでは、状況が悪くなるばかりなので、決着をつけることにした。上月に会って、本当のことを白状させる。上手く行ったら、警察に連絡するので、今は警察に、決して連絡するなって」
「しかし、それは・・・」
「二人が会えば、何か恐ろしいことが起きそうでとても不安なの。私なら兄を引き留めることが出来ると思う。私は、これから旧社屋ビルに行くわ。だからお願い、あなたも一所に来て」
「分かった、これからすぐに旧社屋ビルに向かう」
「私は兄が無実だと信じる。だから、警察には言わないで」
「しかし、現場の状況次第では、警察に連絡するよ。これだけは承知して」
「えぇ、それで構わない。いつも助けてくれて、本当にありがとう」
「あぁ、くれぐれも気を付けて来てくれ」
悟郎は、手早く身支度を整え外に出ると、シルバラードを置いてあるマンションの駐車場に向け駆け出した。
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