第十章 容疑者浮上
我妻から珍しく連絡があり、尋ねたいことがあると言う。悟郎も相談したいことがあったので丁度良かったのだが、我妻が指定した会談場所は矢張り、銀座のクラブ、アビアントであった。そのような次第で、悟郎はアビアントの一番奥のボックス席で我妻と相対している。
「ついこの前のことだが、タレコミがあってな。匿名の手紙が届いたんだ。その手紙には、東郷尚彦は、田上という男に殺されたって書いてあった。田上は、社長夫人と近しい関係ある人物とも書かれているんだが、あんた、社長夫人のエージェントだろう。田上という男に何か心当たりはないか?」
いつものように、単刀直入に用件に入ったが、口火を切ったのは我妻だった。
「田上なら知っています。東郷社長の秘書をしていた男です」
「それは、こちらの調べでも分かってるさ。しかし、秘書と言っても東郷社長が個人的に雇っていたそうじゃないか。東郷建設に問い合わせたんだが、“当社には、そのような社員は現在も、過去も在籍しておりません”とにべもない返事だ。あんたならもっと詳しいこと知っているんじゃないのか?」
「はぁ、詳しいことは分かりませんが、ある程度のことは」と前置きして、悟郎は紗希から聞いたことを話して聞かせた。ただし、田上に襲われたことは、紗希との約束があるので伏せておいた。
「ほう、社長夫人の兄さんだったのか。そいつは驚きだ」
「血の繋がっていない兄です」
ここは強調したいところなので、悟郎は語気を強める。
「ふむ、そこが問題だな。いいか、よく考えてみろ。二人は幼い頃から、とても仲がよかったんだろう。もしかすると、兄妹ではなく、男女の仲であったかもしれん。世間にはよくある話だ」
「そんな馬鹿な、あり得ませんよ。田上は自分の立場を良く弁えており、紗希さんのことを工藤家のお嬢さま、自分はその庇護者という姿勢をずっと崩さなかった。田上はそういう男です」
「分かったよ、でもな、もしもだ、田上と社長夫人が男女の仲だったら、田上は、愛する人を奪った尚彦を恨んだろうな。つまり怨恨という殺人動機があるってことだ」
我妻は、目を細めて悟郎の顔を見つめる。
「いや、仮にしたって、そんなことはあり得ません。紗希さんは、そんな人じゃない」
「そうムキになるなよ。あの社長夫人に惚れたか?」
虚を突かれたというか、図星だったので悟郎は大いに慌てる。
「何を言うんです。紗希さんはクライアント、私はそのエージェントというだけの関係です」
「まぁいい、調べればわかることだ。ところで、そちらの用件はなんだ?聞こうじゃないか」
我妻はニヤリと笑い、グラスのビールを一息に空けた。
「実は、十日ほど前、東郷社長が転落死した現場を見てきたんです」
「ほお、それはご苦労なことだな」
「それでいくつか気になることがあって、我妻さんの考えをお聞きしたいんです」
「なんだ、言ってみろ」
「あの事件が他殺だとしたら、どのような方法で行われたか推理してみました」
「ふむ、それで」
「犯人は何らかの方法で、東郷をあの旧社屋ビルに誘き出した上で、地下の非常出入口から入り込み、七階の物陰に隠れる。東郷が観音像のあるホールに入ったときに窓を開け、東郷がホールから出てきたところを襲い、窓から突き落とした」
我妻がどのような反応を示すか、その表情を伺う。
「素人にしては、上出来の推理だ。そこまで推理したのなら教えてやるが、あの事件は殺人の疑いが強まった」
「えっ!ほんとですか?」
意外な成り行きに、悟郎は驚きの声を上げる。
「あぁ、最近になって通用口や周辺ビルの防犯カメラの詳細な分析結果が出た。死亡推定時間の少し前に、あのビルの上の方の階の照明が、何度も点いたり消えたりしていることが分かったんだ」
「はぁ、それが殺人と関係があるんですか?」
「死んだ翌日の朝の現場検証で分かっていたことだが、七階の照明は切られている状態だった。そのことを前提に推理するとだな、自殺より他殺と考える方が自然ということになった」
「もう少し分かりやすく教えてください」
「当初我々は、東郷は七階に着いても照明は点けず、懐中電灯を使って、観音像にお参りし、窓を開けて飛び降りたと考えた。照明のスイッチは切られた状態だったし、遺留物の懐中電灯があるので、そう考えるのが順当だった。しかし、照明が点いたり消えたりしていることが判明した、これは何を意味するか?東郷は、七階に着き、先ず照明をつけて、窓を開ける。窓から飛び込む前に、エレベーター近くまで戻って照明を消し、まだ窓のところに行って、飛び込む・・・なんてこと普通しないだろう。ましてや点いたり消したりを二回もしているとなれば猶更だ」
「それはそうですね」
「それであんたが推理した通りのことを、我々も推理したという訳だ。つまり、東郷は七階にやってきて、先ず照明を点ける。そして照明は点けたまま観音像があるホールに入る。その隙に隠れていた犯人が窓を開け、また身を潜める。東郷がお参りをしてホールを出てきたところで、犯人が照明を消す。暗闇の中で犯人は東郷を襲い、開け放った窓から突き落とす。犯人は照明を点け、辺りを点検した上で、明かりを消し、エレベーターで地階に降り、非常用出口から立ち去る」
「素晴らしい、さすが日本の警察は優秀です」
「お褒め頂くのはまだ早い。まだ解明しなければならんことがある」
「犯人は、地下の出入口からどうやって入り込んだか」
「確かにそれもある。しかしそれは、事前に鍵を持ち出しておくとか、スペアキーを作るとかすれば可能だ。最大の謎は、犯人はどうやって、東郷を深夜、それも一人で、誰もいない旧社屋ビルに誘い出したかということだ。つまり、犯人はそうすることが出来る人物でなければならない。よほど親しい人物とか、信頼できる人物とかが犯人という可能性がある」
「まさか、紗希さんを疑ってなんかいないでしょうね?」
「最も親しいという点では、妻が一番だがな」
「じょ、冗談でしょ。紗希さんには、夫を殺す動機が無いじゃありませんか」
「はは、安心しろ、社長夫人を疑っているわけじゃない。疑わしきは、タレコミがあった、東郷の私設秘書をしていたというその兄さんだ」
我妻はそう言うと、これで用件は終わりとばかり、ホールスタッフを呼んで、ママに来るように伝え、ついでにビールを注文した。悟郎も今日はこれで終わりと、腰を浮かせかけたが、ふと思い出して言い足した。
「あぁそうだ。旧社屋ビルの管理会社の社長が、我妻さんに会ったら、よろしく言って置いて下さいとのことでした」
「確か上月と言う名だったな。現場検証などで何度か世話になっている」
「そうらしいですね」
「上月とは、どのような人物だ?」
「桐野常務と入社が同期で、ニューヨークでは、桐野さん、紗希さんと一緒に仕事したそうです。実直で信用の置ける人物と思いますが、何か?」
「いやなんでも無い。ちょっと聞いただけだ。さぁ、仕事の話はこれで終わりだ」
要件が終わったら、悟郎は支払いを済ませてとっとと帰る。残った我妻は、存分に飲む。この二人のルールに従って、悟郎は早々とアビアントを出たのであった。
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