第九章 向井史郎法律事務所

 史郎とは、メールや電話では情報の交換をしていたが、込み入ったことは矢張り会って話さないと埒が明かない。今日は久しぶりに史郎に会って、じっくり話し合うつもりであった。史郎の法律事務所は、赤坂の特許庁近くの古ぼけたビルの五階にある。ビルはショボいが、三十三歳にして自前の弁護士事務所を構えているのだから、立派なものだと悟郎は来るたびに感心する。


「間違われて襲われるとは、とんだ災難だったな」

応接室に入ってくるなり史郎が声をかける。

「まったく、いい迷惑だ」

奥軽井沢のリゾートで、田上に襲われた事は、その概略を電話で伝えていた。

「しかし何だな、紗希さんには、随分と物騒な兄さんがいるんだな」

「あぁ、その兄もそうだが、父親の工藤理之助もなにやら物騒な人物のようだ。理之助について調べてくれたそうだな」

紗希の父親は犯罪者と言った、高木奈美恵の言葉が気になって仕方ない。

「おぉ、色々調べてみた。意外な事実が分かったぞ」

史郎は、紗希の父親、工藤理之助について語り始めた。

「工藤理之助は、兜町の風雲児と言われた大物相場師の辛島智也の参謀的な人物で、世間にはあまり知られていないが、その筋では有名な人物ということだ。大学を出て証券新聞社の記者をしていたんだが、辛島に請われてそのグループに入った。主に裏社会や右翼などの資金運用を担当したらしい。理之助は頭脳明晰なうえに、度胸もよかったので、普通の人が、ビビるような人物とも物怖じしないで渡り合った。そういうところが、暴力団の組長などに気に入られ、動かす資金量は、辛島グループでトップとなり、辛島に次ぐナンバーツーに上り詰めたんだ」

史郎はお茶を飲んで一息入れ、話を続ける。

「東郷建設の先代社長とは、当初は株式の上場などの相談に乗っていたんだが、互いに宗教に深い関心があることが分かり、急速に親しくなったと言われている。なんでも、一緒に、四国四十八か所の霊場巡りをしたということだから、親友と言っていいだろう。で、家族ぐるみの交際になり、東郷建設の先代社長は、紗希が幼い頃から大層気に入って、将来は、自分の息子の嫁にと思うようになったって訳だ」

紗希が東郷尚彦と結婚したのには、そうした経緯があったのかと悟郎は合点が行く。

「先代社長は、“紗希さんが大学を卒業したら息子の尚彦の嫁になって欲しい”と申し込んだんだが、当の本人の紗希さんは、大学卒業後は社会に出て働きたいという気持ちが強くて、結局その話は纏まらなかったんだ。でもあきらめきれない先代社長は、数年後の結婚を前提に紗希さんの東郷建設入社を要請した。紗希さんは父親の強い説得もあり入社を承諾した」

「そうか、紗希さんの結婚は、親同士が推し進めたものだったのか」

「そういうことだ、で、紗希さんは尚彦と将来結婚する含みで入社したんだが、簡単には結婚に至らなかった」

「それは、尚彦に高木奈美恵という愛人がいたから?」

「それもあるが、尚彦は敷かれたレールに乗るのを潔しとせず、結婚を渋って中々結婚しようとしなかったんだ。紗希さんが大物相場師の娘であることなども結婚をためらう理由だっただろうな」

「それでも結局は結婚した」

「そこが尚彦のお坊ちゃまたる所以だよ。何だかんだ口先では反抗して見せても、父親に、“わしの言うことを聞かぬなら、次期社長にはさせんぞ!“と一括されたら従うのだからな」

「それで、邪魔になった奈美恵を捨てたって訳だ」

「そうだよ、あの奈美恵が憤るのも分かる」

「その奈美恵が、紗希さんは犯罪者の娘とか言っていたが、そうなのか?」

「あぁ、理之助は総会屋とも深い繋がりがあったんだが、株主総会の運営を巡る利益供与事件に関与したとして逮捕され、拘置所に拘留中にクモ膜下出血で急死したんだ」

「死んでも有罪になるのか?」

「被疑者死亡のまま書類送検され、有罪になった。だから犯罪者の娘というのは、あながち間違いではない」

裕福な家庭のお嬢さまだとばかり思い込んできた。しかし、人に言えぬ苦労を背負ってきたのだと分かり、悟郎の心は痛んだ。

「おい、何しょぼくれているんだ。こんな時こそ、紗希さんの役に立ってあげなければならんだろう。しっかりしろ」

悟郎が塞ぎこむように考え事をしているのを見て、史郎が叱りつけた。

「あぁ、そうだな。紗希さんを支えてあげなきゃな」

悟郎は、気を取り直し、紗希から聞いた田上の生い立ちについて話して聞かせ、渋谷専務に関するレポートの内容などを打ち合わせして、向井法律事務所を出たのであった。

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