第八章 奥軽井沢リゾート
東郷建設が開発していた奥軽井沢のリゾートが、九月下旬にようやく完成した。ゴルフ場、スキー場、プール、スパなどを併せ持つ複合型リゾートで、宿泊施設は、本館のホテルルームの他に、独立戸建てのヴィラも備えていた。オープンに先駆けてセレモニーが開催されることになり、紗希と悟郎も参加することになっていた。紗希は、桐野から“このリゾート開発は、東郷社長が特に熱心に取り組んでいた事業なので、是非、亡き社長に代ってその完成を見届けて欲しい”と懇請されての参加であった。悟郎は、このリゾートの総支配人を紹介あっせんした関係者として招かれていた。
セレモニーは、リゾートのお披露目、宣伝という目的もあり、招待客は一泊し、本館のコンベンションホールで行われるディナー付きのセレモニーパーティに参加するという形をとっていた。悟郎は招待状にドレスコード「ブラックタイ」とあったので、あまり深く考えず、ダークスーツにネクタイを締めてやって来たのだが、どうやら違うらしい。男性はタキシードを着用しなければいけないようで、どうしたものかと悩んでいたが、桐野が予備のタキシードを貸してくれると言うことになり、甘えることにした。
オープンセレモニーの当日、本館二階にあるコンベンションホールのロビーは、正装した男女がいくつも群れていた。パーティー会場の入り口には、東郷建設の幹部達が、にこやかにゲストを迎えている。タキシード姿の桐野や柴田の姿も見える。
会場内は、間接照明が多用され、全体の光量は抑えられており、あちこちに配された豪華なイベントフラワーをスポットライトが照らしていた。正面は全面ガラス張りになっており、ライトアップされて青く輝く屋外のプールを眺めることが出来た。会場のサブステージでは、生バンドが音量を抑え気味に、ボサノヴァを演奏している。
ゲストの出迎えが一段落したようで、桐野が会場に入ってきた。タキシードを借りた礼を言わねばと、悟郎が声をかける。
「お借りしたタキシード、誂えたようにピッタリです」
「それは良かった。私と背格好が同じなんですね」
桐野は無事、リゾートがオープンに漕ぎつけたので上機嫌である。
「ええ、桐野さんのタキシード借りられてほんと助かりました」
「高級リゾートを売りにしているので、ブラックタイと気取ってみたのですが、なんかご迷惑かけたようですね」
「タキシードなんて柄じゃないので、何か落ち着きません」
「いやいや、よくお似合いですよ。ところで紗希さんにお会いになりましたか?」
「いえ、私は先ほど着いたばかりで、まだ会っていませんが、おっと、紗希さん来たようですよ」
ちょうどその時、会場の入り口から、黒いイブニングドレス姿の紗希が入ってきた。社長夫人と知る関係者から寄せられる挨拶に応えながら、柴田に案内されてこちらの方にやってくる。その姿は、着飾った大勢の人の中でも、ひと際美しく、気品に満ちていた。悟郎はそんな紗希の姿に見とれていたが、桐野は素早く紗希に近づき、セレモニーに出席してくれたことへの礼を述べた。悟郎も桐野に続いて簡単な挨拶を交わす。
「それでは、来賓席までご案内します」
桐野が先に立って歩きだしたので、紗希も後に続く。悟郎としては報告したいこともあり、もっと紗希と話し合いたいと思ったが諦めて、指定された関係者の席に向かった。
大型モニターを用いたリゾート施設の案内や、ショウステージなどのイベント、その後の本格的ディナーが済み、セレモニーの主要な催しが終わった。悟郎は、紗希に話し掛ける機会を窺っていたが、紗希が席を立つのを見て、悟郎も素早く席を立った。
「紗希さん、ちょっといいかな」
会場を出たところで、紗希に追いつき声をかけた。
「あぁ、矢吹さん、今日はお疲れ様」
「いや紗希さんこそ疲れたろう、来賓席は、政治家の先生だの取引銀行の役員だの爺様ばかりで、いかにも窮屈そうだった」
「まぁね」
紗希は、悪戯っぽく、肩を竦めて笑った。
「これからどうする?よかったら飲み直さないか?ディナーでワインを飲んだけど、どうも口に合わなくて。それに報告したいこともあるし」
「それなら、私のヴィラで飲みましょう。三十分位経ったら来て、お酒の用意しておくわ」
「あぁ、分かった。それじゃまた後で」
紗希が立ち去る後ろ姿を見ながら、思わずガッツポーズをする悟郎であった。
三十分後、悟郎は紗希のヴィラに行くために館外に出た。ヴィラと本館は屋根付きの回廊で結ばれているが、吹き曝しである。標高が高い奥軽井沢は、九月下旬ともなると夜はかなり冷え込む。しかし、ほろ酔い気分の悟郎にとっては、むしろ心地よく、心弾ませる思いで、紗希のヴィラを訪れたのであった。
◇◆◇
ヴィラは独立棟で、リビング、ベッドルーム、露天風呂、ジャグジーなどが備えられたゴージャスなものであった。紗希は、リビングルームに悟郎を招き入れると、悟郎にソファーに座るよう勧め、自分も座った。テーブルには、洋酒のボトル、ミネラルウォーター、氷の入った容器などが置いてあり、紗希は水割りを作り、悟郎に差し出した。
「ウイスキーでよかったかしら」
「ワインじゃなければなんでもいいよ」
紗希は自分の為の水割りを作り、二人はグラスを合わせて乾杯した。長袖のイブニングドレスはエレガントであるが、胸元や背中が大きく空いており、大人の女の色香が漂う。
「史郎さんと一緒に渋谷専務と会ってくださったのでしょう」
「あぁ、会った。一言で言うと老獪な狸という印象だったが、思っていた程のワルではなかったな。でも史郎はどうかな。あいつはシビアだから」
「渋谷専務は、創業以来の功労者であることは間違いないし、桐野さんに比べれば、そんなに悪い人じゃないと思うけど、経営者としてどう見るかね」
「うん、年齢が年齢だし、将来を担う人材かというと、そこが問題だね。詳しいことは、今、史郎がレポートに纏めているから、そのうち提出するよ」
会話が一段落して、紗希は悟郎のために水割りを作る。
「高木奈美恵に会った?」
グラスを悟郎に差し出しながら、さりげなく聞いた。
「あぁ」
悟郎はグラスを受け取り、思案する。
〈どう話すべきだろうか?〉
自問するが良い考えは浮かばない。結局、なるべく傷つけぬように気を付けて話すことにした。紗希は、悟郎の話しを黙って聞いていたが、矢張り聞くのが辛いのか、急ピッチでグラスを空けていた。
「ねえ、わたしの事どう思っている?」
紗希はかなり酔いが回っているらしい。首筋や耳が桃色に染まっている。
「どうって・・・」
「お金目当てに、ずっと年上の男と結婚した最低の女、略奪結婚した悪い女、そう思っているんでしょう?」
取り乱しているとまでは行かないが、紗希は普通じゃない。
「なに言ってるんだ、そんな風に思うわけないよ」
高木奈美恵の言葉が脳裏に浮かぶが振り払う。
「他の人にはどう思われてもいい、でも・・・」
「でも・・・でも俺は学生時代からずっと貴女のことが好きだ」
紗希は悟郎の言葉に頷き、両手で顔を覆い嗚咽を漏らした。悟郎は立ちあがると、震える紗希の肩にそっと手を触れた。それに応えるように紗希は立ちあがる。悟郎と紗希は、互いに強く抱き合い、口づけを交わした。
激しく求め合い、熱い嵐のようなひと時が過ぎて、紗希は悟郎の横で安らかに眠っている。悟郎は紗希が目覚めぬように、そっとベッドを抜け出すと服を身に着けた。
ヴィラから出て、空を見上げると、大きな月が天空に輝いていた。悟郎は熱い余韻に浸りながら、自分の宿舎として宛がわれたヴィラに向け、回廊を歩いて行った。
◇◆◇
自分のヴィラに着く。門燈に灯りが点いているので、玄関周りは明るい。悟郎は、ポケットからカード式のキーを取り出し、扉を開けた。その時、後ろから背中を強く押されて、悟郎は部屋の中によろめき入った。
「誰だ!危ないじゃないか」
振り返り叫んだその先に、黒い人型のシルエットがあり、悟郎に続いて部屋に入りこむと、扉を閉めた。
「ナイフで刺されたくなかったら、静かにしろ」
照明が点いていない暗い部屋に、押し殺した男の声がして、息遣いが迫ってくる。悟郎はじりじりと後退し、リビングの窓際まで追い詰められた。大きな窓から、月の光りが差し込み、窓辺の周囲は仄かに明るい。その微光の中に浮かび上がったのは、ピエロの面をつけたタキシード姿の男だった。右手には大型のナイフを握りしめている。
「人違いしてないか。俺は殺される覚えはない」
悟郎は腰を落として身構える。大学時代に合気道同好会に所属していたので、刃物を持った相手と素手で渡り合う技を知らないではなかった。しかし所詮は実戦経験の無い道場技で、その腰は引けている。
「殺しはしないから安心しろ。いいか紗希さんに手を出すな。もしまた同じようなことをしたら、その時は殺す」
男はスッと悟郎の懐に飛び込むと、ナイフを悟郎の首筋に当てた。悟郎は成す術もなく、仰け反る。
「うん?お前、桐野じゃないな」
間近に迫った男が、月明かりに照らされた悟郎の顔を見て呟き、首に当てたナイフを手元に戻した。
「だから言ったろう、人違いするなって」
悟郎は必死で抗議する。男は、一歩退き、無言でその場に佇んでいる。何か考えているようにも見えるが、仮面で覆われた顔の表情は分からない。
「とにかく俺は桐野じゃない。わかっただろう」
無言の睨み合いに耐えられず、悟郎が再び声を上げる。すると、男はナイフを脇のホルダーに収め、ゆっくりと身を翻して立ち去って行った。
悟郎は大きく息をつくと、ナイフを当てられた首を手で撫でて、傷ついていないか確かめた。痛みも無く、血も流れていないようなので、一先ずホッとする。
警察に通報することも考えたが、先ずは紗希に事の次第を知らせるべきと思案した。先ほど悟郎を襲った男は、紗希に何らかの関係のある人物に違いないと思ったからである。
◇◆◇
紗希のヴィラを再び訪れた悟郎を、紗希はシルクのナイトガウン姿で迎えた。悟郎は一部始終を話して聞かす。
「桐野さんと間違えられたのね。背格好が同じだから」
話しを聞き終えた紗希が、申し訳なさそうに言う。
「うん、顔はまるで似てないけどね」
「とにかく無事でよかった。傷は無い?大丈夫?」
「あぁそれは心配ないけど、警察への通報はどうする?」
「警察には知らせないで」
「襲った男に、心当たりがあるらしいね」
「えぇ、それは田上に違いないわ。桐野から、何度も執拗に迫られて、困り果てていた時に、相談したことがあるから」
田上という名前は、どこかで覚えがある。が、すぐには思い出せない。
「警察に通報しないでと言うけど、俺はナイフで脅されたんだ。その理由を聞かせてくれないか」
「そうね、分かった、理由を話すわ。実は・・・」
紗希はそこで言い淀んだが、気を取り直して続けた。
「田上は、血が繋がっていないけど私の兄なの」
紗希は、田上の身の上を詳細に話した。その概要は、次のようなものであった。
≪田上は旅役者の子として生まれ、小さい時から子役として舞台に立っていた。しかし母親が若い役者と駆け落ちしてしまい、父親は酒と博打におぼれて大きな借財をこしらえ、夜逃げした。孤児となった田上を、見かねた関係者が、頼ったのが紗希の父親である工藤理之助であった。不憫に思った理之助は田上を養子とした。
理之助は、躾こそ厳しかったが、実の子である紗希と分け隔てなく育てた。紗希とは、かなり年が離れていたが、田上は紗希をとても可愛がり、紗希も田上を実の兄のように慕っていた。しかし、田上は、自分の立場を弁えており、紗希を恩義ある工藤家のお嬢さん、自分は紗希の庇護者という態度を貫いていた。
田上は、高校を卒業すると、劇団に入団し演劇の道に進んだ。芸名は田上譲治。特異な風貌もあって、個性派脇役として次第に注目されるようになった。しかし、病身の理之助に頼まれて、その仕事を手伝うようになった。理之助が亡くなった後は、東郷尚彦の私的な秘書として働くようになった≫
「あぁ、思い出した。俺の事務所に訪ねてきたことがある」
社長秘書と名乗り訪れた、あの爬虫類を思わせる男だ。
「兄は私の為を思ってやったことなの。だからお願い、警察には通報しないで」
「分かった、そういうことなら通報しない」
「ありがとう、兄には、貴方の事よく言っておく」
「あぁ、それじゃ夜も遅いので、俺は帰るよ」
「本当にごめんなさいね。それじゃお休みなさい」
ヴィラを出ると冷たい風が身に染みた。見上げる南の空に、満月が煌々と輝いている。
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