第六章 旧社屋ビル
東郷直彦が転落死した旧社屋ビルは、東郷建設子会社の東郷リアルエステートが管理していた。その社長は、上月喜美夫といい、紗希がニューヨーク時代、一緒に仕事をした旧知の人物だったので、悟郎と紗希が現場を見ることを快く承知してくれた。その上、上月自身が現場への案内もしてくれるということで、悟郎と紗希は、永代橋の近くにある東郷リアルエステートを訪れたのだった。
「こちらの矢吹さんは、大学の同窓生で色々相談に乗っていただいています」
紗希が悟郎を紹介する。上月は四〇歳代、少し暗い感じがするが、歌舞伎役者の女形を思わせる中々の好い男である。
「そうですか、大学時代からのお知合いなんですね。えーっと、お仕事は、ヘッドハンターですか?」
上月は、悟郎から受け取った名刺を眺めなら、やや怪訝な顔をしている。
「ええ、フリーランスの人材紹介ヘッドハンターをしています。日本じゃあまりメジャーな職業ではありませが」
「確かに日本ではあまり知られていませんね。でも米国では、ステータスの高い職業ですよ」
悟郎としては我が意を得たりで、そう言ってくれた上月が急に好ましく思える。
「ええ、アメリカではそのようですね。そういえば上月さんは、ニューヨーク駐在経験がお有りでしたね」
「ええ、紗希さんと一時期ニューヨークで一緒に仕事をしました。ところで本日の御用件は、現場をご覧になりたいということでしたね」
上月が紗希を見ながら要件の確認をする。
「えぇ、東郷が亡くなった場所に、花を供えたいと思って。それに先代社長が大切にしていた観音像にもお参りしたい」
紗希は持参した花束を上月に見せる。
「もし迷惑でなければ、防犯カメラや飛び降りた窓などについても、説明してくれませんか。警察は自殺と判定したようですが、まだ他殺説を捨てない刑事がいます。私としては、その辺のところを、この目で確認したいのです」
悟郎としては、現場検証のつもりで来ているので、熱心に頼み込む。
「分かりました。そういうことなら、現場に案内する前に、旧館ビルの概略について説明しましょう」
上月は「少しお待ち下さい」と言って、立ちあがり、別室に行ったが、しばらくすると、図面のようなものを抱えて戻ってきた。元の席に座った上月が説明を始める。
「あのビルは東郷建設の本社ビルとして、約五十年前に建設されました。その後、会社規模が急拡大し手狭になり、建て替えすることが決まったのです。解体に着手しようとして分かったのですが、あのビルには多数の地権者がいて、建物の一部がそれらの者達の区分所有になっていたんです。ビルを解体するのは、所有者全員の同意を取り付けなければなりません。そのため、すぐに暗礁に乗り上げてしまったのです。地権者達との煩瑣な交渉に嫌気がさしたこともあったんでしょう、先代社長は、思い入れが深いこのビルを、一部を資料館、その他を倉庫とすることにしたのです。そうした経緯があって、このビルは何とか解体を免れていたのですが、尚彦さんが社長になると、何事も合理的な考えの持ち主でしたから、このビルは、解体と決めたのです。ところが、渋谷専務など古参社員が反対して、もうしばらくの間、解体せずにおくことになりました」
上月は、説明を中断すると、持参してきた旧館ビルの図面をテーブルに広げた。
「それでは、ビルの図面を使って説明します。このビルは日本橋川沿いに建てられていて、裏側は川、両隣は同じようなビルが建っています。ビルの入口のある表側が、通りに面しているという立地になっています。建物は、地上八階、地下一階、各階フロア面積は百二十坪程度、エレベーターは二基ですから、当時としては、一般的な中規模オフィスビルと言っていいでしょう。地下室は、倉庫と機械室、一階は玄関ホールと打ち合わせコーナーなど、二階から六階は事務所スペース、七階は入社式や社員研修などのための多目的ホールで、観音像はこのホールの一番奥に安置されていました。そして、八階が役員室と取締役会用の会議室という配置です。ビルの入口は正面玄関と社員通用口、それにビルの裏側に地下室への出入り口があります。」
上月の丁寧な説明に紗希と悟郎は礼を言う。図面での説明は大助かりである
「後は現場で詳しく説明します。それではそろそろ、行きましょうか」
上月はそう言うと、二人を促し立ち上がった。
◇◆◇
日本橋の旧社屋ビルに、上月が手配した車に乗り出かけたが、ものの十五分もかからない内に到着することが出来た。そのビルは、日本橋川に架かる新常盤橋の近くにあり、付近は小規模なビルや倉庫が立ち並んでいる。日本橋界隈は、大手ディベロッパーが大規模な再開発を進めているが、河川沿いのこの辺りは取り残されたままであった。
ビルの周囲は、不審者などが入り込めないように、工事用の高いフェンスが巡らされている。上月はフェンスの出入口に二人を案内すると、上の方を指差して、防犯カメラが取り付けられていると教えた。
「するとこのカメラに、東郷社長が入るところが映っていたんですね」
悟郎がカメラを見上げながら聞く。
「そうです、このカメラにも記録されていましたが、通用口のカメラにも映っていました。そのカメラのことは後で説明します」
上月がフェンス入口の鍵を手に取り開錠しようとしている。
「その鍵は、暗証番号方式なんですね?」
「えぇ、こんなビルでも、メンテや警備など出入りする業者は結構います。いちいちカギの授受をするのが面倒なので暗証番号式にしています。さぁ鍵が開きました」
上月は、開錠を済ませフェンスを押し開く。
「東郷社長は、暗証番号を知っていたのでしょうか?」
「その件は警察が抜かりなく捜査しています。担当の刑事から聞いた話しですが、東郷社長は亡くなる数日前に、秘書に命じて暗証番号を調べさせたとのことです。秘書は、本社総務に問い合わせて社長に報告したそうです」
「担当の刑事って、もしかしたら我妻という名じゃありませんか?」
「そうです、そうです。現場検証でお会いした他に、私の会社にも見えられて色々聞いて帰られました」
「我妻さんとは、昵懇な仲なんです。如何にも刑事らしい刑事でしょ」
「そうですね、我妻刑事と会うことがあれば、今後も協力を惜しまないとお伝え下さい。じゃ中に入りましょう」
上月が先になり、紗希と悟郎も後に続きフェンスの中に入った。
三人が入ったすぐ前は、ビルの正面入り口で、今はシャッターが下りている。フェンスとビルに挟まれた狭い通路を、右の方にしばらく進む。
「狭いので気を付けてください。ここを左に回ると社員用の通用口があります」
上月は左に曲がり、鉄製の扉の前に立ち止まった。
「ここにも防犯カメラが取り付けられています」
上月が扉の上方を見上げる。
「するとこのビルには、フェンスの出入り口に一台、この通用口に一台の計二台があるわけですね。そして、両方のカメラに東郷社長が一人で入るところが映っていた」
「そうです。両方のカメラに記録されていました。さてと、館内に入る前に東郷社長が倒れていたところに、先ずご案内しましょう」
上月は紗希に向けて告げると、更に奥に進んで行く。
「突き当りのフェンスの先は、日本橋川です。そこをまた左に回ります」
三人は左に回り、ビルの裏側に出た。数メートル先の壁際に、萎れた花が置かれている。紗希がそれを見て、はっと息をのむ。
「東郷社長は、ここに倒れていました。この丁度真上の七階の窓から転落したと思われます」
紗希は持参した花束を、そこに置き屈みこんで両手を合わせた。悟郎と上月もその後ろに立ち、合唱する。
「発見したのは誰ですか?」
紗希が立ち上がるのを待って悟郎が上月に聞く。
「翌朝、清掃するために入った者が見つけました。何時ものようにエレベーターで七階にあがると、窓が開いていたので下を覗き込むと人が倒れていたのです」
悟郎は上を見上げ、七階のあたりの窓を眺めるが、どの窓も閉められている。
「さぁ、それでは戻って館内に入りましょう」
上月はそう言って戻りかけたが、悟郎は、ビルの裏側にあるという、地下の出入り口が気になった。
「確かビルの裏側に、地下室への出入り口があるということでしたね?」
「はい、あります。ご覧になりますか?」
悟郎が見たいと言うと、上月はビルの裏手の、更に奥まった方に二人を案内した。
行く手に、レンガ造りの造作物がある。煙突らしいものがついているので、どうやら焼却炉のようである。
「あれは、焼却炉ですか?」
「えぇ、建設会社は設計図や建物の模型など、シュレッダーでは断裁できないものが、山ほど出るので、そういったものをこの焼却炉で、燃やしていました」
業務用としても、かなり大型の焼却炉であった。地下への出入口は、その焼却炉のすぐ近くにあった。
「これがその出入口です。と言うか、正確には消防法に定められた非常用の脱出口です」
「ここの鍵はどこにあるのでしょう?」
「守衛室のロッカーに保管してあります。機械室の鍵や屋上に出る扉の鍵などこのビルに関する鍵はすべて、そこで保管されています。さぁそれでは、戻って館内に入りましょう」
三人は通用口のあるところまで戻ってきた。
「この通用口も暗証番号式です」
上月は扉の横に取り付けられている暗証ボックスを示して説明した。
「正面入り口と、都合二か所、暗証番号入力しなければならないわけですね」
「えぇそうです。二か所とも、四桁の数字を入れる方式です。しかし番号を別にすると面倒なので同じにしていますがね。あぁそうだ。この四桁の数字わかりますか?」
上月がいたずらっぽく悟郎と紗希の顔を見る。
「それはもしかして、一、ゼロ、五、ゼロじゃないかしら」
紗希が考え込むでもなくあっさりと答える。
「当たりです。紗希さんならすぐわかると思いました」
悟郎は頭の中で、一、ゼロ、五、ゼロ、一、ゼロ、五、ゼロと唱えてやっと気づく。
「東郷建設、とうごう、一、ゼロ、五、ゼロ、あぁなるほどね」
分かってみればたわいない。
「どうぞお入りください」
暗証番号を入力し、扉を開けた上月が声をかけた。上月、紗希、悟郎の順で中に入る。
左側に守衛室がある。その先は、打ち合わせや来客を応接するコーナーになっていて、更に少し進むと広いエントランスホールに出た。左側が正面入り口、右側にエレベーターがあった。
「こういっては何ですが意外と綺麗ですね」
廃墟ビルのようなイメージを抱いていた悟郎は意外に思った。
「この一階と観音像がある七階は、時折、掃除させています」
紗希も物珍し気に、辺りを見回しながら、エレベーターホールに向かう。
「エレベーターは使えるのですか?」
エレベーターの前に立った悟郎が聞く。歩いて七階まで登るのは、ちょっと辛い。
「ビルのメンテナンス上必要なので、二基あるうちの一基だけは、今も動くようにしています。それに渋谷専務が月に一度ほど、七階の観音像にお参りにくるので、動かしておかないと大変なんです」
上月は苦笑いしながらエレベーターの昇降ボタンを押す。扉がすぐ開いたが、紗希は入るのをためらう様子である。
「大丈夫です。このエレベーターは、定期的に保守点検していますから。さぁどうぞ」
恐る恐る紗希はエレベーターに乗り込む。二人も後に続いた。
七階でエレベーターを降りる。そこは広めのホールになっていて、数メートル先の正面に、両開きの大きな扉がある。多目的ホールの扉だろう。エレベーターの左手には、トイレや給水室の施設があり、右手は内階段の入口になっていた。
尚彦が飛び降りたとみられる窓は右端にあり、スライド式の引き窓であった。
「これが問題の窓ですね。開けてみていいですか?」
「えぇ、構いません。ですが転落しないよう気を付けてください」
窓は腰の高さのあたりから開口部になっており、身を乗り出せば落ちてしまいそうである。悟郎は慎重に窓を引き開いた。
「なるほど、この窓からなら飛び降りることは容易ですね。でも、こんな危険な窓がどうしてあるのですか?」
「この窓は、避難用の窓なんです。今はありませんが、窓の下には避難器具用の大きな格納箱が置いてありました」
「なるほど、その格納庫があれば、それほど危険ではないですね。でも、今は無いのはどうして?」
「このビルが使われなくなり、救助器具の耐用年数も過ぎてしまったので、撤去したようです」
「東郷はこうした窓があることを知っていたのでしょうか?」
先ほどから、黙って二人のやり取りを聞いていた紗希が、上月に聞いた。
「東郷社長は若いころ、このビルで働いていましたから、避難用の窓が各フロアにあることは知っていたでしょう。格納箱が撤去された最近の状況も、このビルを解体するために、何度か視察に訪れているのでご存じだったと思います」
紗希はその説明に納得したのであろう、上月に頷いてみせた。悟郎は窓から下を覗いて、転落した位置を確認して窓を閉めた。
「さて、それでは観音像があるホールに参りましょうか」
両開きの扉を開けて入った部屋は、入社式や研修会などに使われる多目的ホールで広々とした空間であった。突き当りは、数段高いステージ状になっており、最奥部の壁に大きな厨子が設けられている。そこには、二メートルほどの背丈の黄金の観音像が安置されていた。
「観音像の回りは綺麗にしておこうと思いまして、私がときどき掃除したり、燈明をあげたりしています」
言われて観音像の足元の祭壇を見ると、燈明を灯した痕跡がある
「お参りしたいけどいいかしら」
一番前で、観音像を見上げていた紗希が、振り返り上月に聞いた。
「ええ、勿論。ぜひお参りしてください」
紗希は、ハンドバックから数珠を取り出すと手にかけ合掌した。悟郎と上月も、その後ろで合掌する。
「創業社長は、熱心な仏教徒でした。初めて自社ビルを建てたときに、社員が集会する場所に観音像を安置して、社員にも参拝するよう奨励したんです」
紗希のお参りが済むと、上月は観音像を見上げながら説明した。
「はぁ、なるほど」
「しかし、先代社長が亡くなり、尚彦さんがその跡を継ぐと、真っ先に観音参拝を廃止しました」
「経営刷新を目指す新社長としては、当然の判断でしょうね」
「私もそう思います。しかし、紗希さんを前にしてこう言うのもなんですが、先代の思い入れの深い観音像を荒れるがままに放置しておくのは、感心しません」
「おっしゃることは、わかります。あの人は、先代社長に対する反発心が、異常に強かったから」
紗希はそう言うと、何か思い出したようで顔を曇らせた。
「いや、いらぬことを言ってしまいました。さてと、このビルの説明は一通り終わりました。何かご質問が無ければ引き上げたいと思います」
悟郎と紗希は上月に厚く礼を言い、帰路に就くことにした。
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