第五章 成城「東郷邸」
桐野が成城に到着したのは、十時少し前であった。東郷邸は、豪邸に相応しいモダンで立派な外構えをしており、中央に人が出入りする門扉、左手にシャッター付きの大きな車用の出入り口がある。桐野は門扉に取り付けられたインターホンに向かい、何と言うべきか考え込む。しかし、中々良い思案が浮ばない。何時までこうしていても始まらないと見切りをつけ、桐野は思い切ってインターホンのボタンを押した。
「はい、お待ちしておりました」
桐野が何も言わぬ内に、家政婦と思われる声がして、門扉の施錠が外れる音がした。
「今、鍵を開けましたので、中にお入り下さい」
“うん、何故だ!?”
桐野は怪訝に思いながらも、面倒な手間が省けたことに安堵する。門扉を入り、少し右斜め方向に進むと玄関があり、初老の家政婦らしい女性が中から現れた。
「夜分に押し掛けまして申し訳ありません。紗希さんはいらっしゃいますか?」
桐野は神妙に声をかける。
「えぇ、いらっしゃいますよ。どうぞお入りください」
家政婦は、桐野を邸内に迎え入れると先に立ち、奥に導いた。
「お客様を案内してまいりました」
リビングの入口で、家政婦は室内に向け声をかけた。桐野は家政婦の後ろに立っている。
「ありがとう、梅崎さんはもう休んでいいわ。後は私がやるから」
紗希の幾分弾んだ声がする。
「さようですか、それでは私はこれで失礼します」
家政婦は、後ろの桐野に頭を下げて、自分の部屋に戻って行った。桐野はその後ろ姿を見送ってから、リビングに足を踏み入れる。そこは北欧調に統一され、一部が吹き抜け構造になっている広い部屋であった。
「何であなたなの!?」
突然現れた桐野を見て、ブルーのドレス姿の紗希が驚きの声を上げる。
「ずいぶんなご挨拶ですな、貴女とは長い付き合いなのに」
桐野は皮肉っぽく答え、室内の中央に進み、紗希の前に立つ。
「どんな用事か知らないけど、こんな時間に押し掛けるなんて非常識だわ」
「私は無理やり押し入ったわけではありませんよ。インターホンを押したら、お待ちしていましたといって扉を開けてくれたんです」
桐野は落ち着いて答える。
「それは、私どもの勘違いです。とにかく今日はこのままお帰り下さい」
「まぁ、そう言わず少しは私の話しを聞いて下さい」
桐野は勝手にソファーに座ると、紗希も座るように手で示す。紗希は仕方なく、向かい側のソファーに座った。
「実は先ほどまで、メインバンクの役員と後継人事のことで話し合っていたのですが、創業家の意向はどうかと聞かれましてね」
「何度も言っているように、後継人事のことは取締役会に任せています。私は誰も支援しません」
「それじゃ困るんです。中立的な立場の取締役や機関投資家は、創業家の意向次第という状況になっています。メインバンクの役員がそういうのだから間違いありません。だから、どうしても紗希さんの支援が必要なんです」
桐野はそう言うと立ち上がり、紗希の隣りに座る。
「やめて!元の席に戻って下さい」
紗希は両手を突っ張り、桐野を遠ざけようとするが、桐野はその手を払い除け、紗希の肩に腕を回す。
「私が紗希さんのこと、ずっと好きだったということは分かっているでしょう」
桐野が強引に抱きすくめようとしたとき、テーブルの上のスマホが振動し、着信音が鳴った。桐野がビクッとして身体を引いたときに、紗希はすばやく、スマホをとり、立ち上がった。
「あぁ、矢吹さん。お願いすぐに来て」
スマホを通じて、悟郎の驚いたような声が聞こえてくる。もう大丈夫、すぐに悟郎が来てくれるだろう。そんな紗希の様子を、桐野は憮然とした表情で眺めながら、元の席に戻ると、タバコを取り出し、火をつけた。
時間は少し戻る。悟郎は小田急線の成城学園駅に着いて、紗希のスマホに電話した。するとこちらから何も言わない内に紗希の声がした。
「あぁ、矢吹さん。お願いすぐに来て」
ただならぬ様子に緊張が走る。
「分かった。すぐそちらに向かう」
手短に答えると悟郎は全力で駆けた。息を切らして東郷邸の前に至ると、弾んだ呼吸を整えながらインターホンを押した。待ち構えていた紗希がインターホンに出て、門扉の施錠を開けてくれる。
“どうやら紗希さんは無事らしい”
紗希の声を聞いて、少しホッとする。しかし焦る気持ちは変わらない。もどかしげに玄関のドアを開け、リビングに向かった。
リビングルームに入り先ず目に飛び込んできたのは、窓際に立つ、血の気の引いた顔をした紗希の姿だった。
「紗希さん、大丈夫ですか?」
悟郎の姿を見て、紗希はほっとして緊張を解く。
「ええ、なんとか」
悟郎も安堵して室内を見渡し、桐野がソファーに腰かけているのに気付く。大きなソファーの背もたれが邪魔になって、桐野の姿が目に入らなかったのだ。
「桐野さん、どうしてここに?」
悟郎は、紗希の立つ窓際に歩み寄り、桐野に向き合う。
「急ぎ報告しなければならないことがあって来たんだ」
桐野は忌々し気に答え、手にしたタバコを携帯灰皿で揉み消した。
「こんな時間に?」
「あんたこそ、こんな時間にやってくるとはな。紗希さんと随分親しげじゃないか?」
予期せぬ反撃にあって悟郎はたじろぐ。
「いや、私も大事な報告があって、いやそんなことより、紗希さん、本当に何もなかったんだね」
紗希は、何か言おうとするが、遮るように桐野が声をはさむ。
「紗希さんは何か勘違いしたようだ。私も酔っていたので、失礼なことをしたかもしれない。とにかく夜も遅いので、私はこれで失礼する」
桐野は、悟郎と紗希の返事を待たずに、そそくさとリビングルームを出て行った。
「あら、ごめんなさい。どうぞ座って下さい」
立ったままでいることに気づいた紗希が、悟郎に声をかける。
「これで、助けられたの二回目ね」
向かい側に腰かけた紗希の表情は、先ほどの硬い表情が消えている。
「やはり、ヤバイ状況だったということ?」
「ええ、無理やり抱きついてきて」
紗希は、悔しそうに顔を顰める。
「そんな・・・」
何と言っていいかわからず、悟郎は言葉を失う。
「でも大丈夫、桐野さんは酒に酔っていたようだし。それより、喉が渇いたわ。何か飲む?」
そういえば桐野は酒の匂いを発散させていた。
「あぁ、俺も喉、カラカラ、なんせ全力で走って来たからね」
口を開いて、はぁはぁとオーバーに呼吸して見せる悟郎を見て、紗希は微笑み立ち上がった。部屋の隅にバーカウンターがある。紗希はそこで、ブランデーの水割りセットを用意して、元の席に戻ってきた。
アルコールが回って、気分も落ち着いてきた。頃を見計らって、悟郎は我妻から聞いたことを紗希に話して聞かせた。しかし、それでも紗希は、“どうしても東郷が自殺したとは思えない。女の感って言うのかしら、一緒に暮らしていれば分かる。東郷は自殺なんて絶対にしていない”と言い張って、引き続きの協力を依頼するのだった。
「それで次のお願いなんだけど、東郷が転落死した旧館ビルに、一緒に行って欲しいの。事故現場に花をお供えしたいし、先代社長が大事にしていた観音像にもお参りしたい。それに現場を見れば何か分かるかもしれないでしょう」
「一緒に行くのは構わない。実を言うと、俺もあのビルに、一度行ってみたかったんだ」
殺人の疑いがあるなら、現場は見ておいた方が好い。
「それともう一つ、お願いしてもいいかしら?」
青ざめていた紗希の顔は、酔いが回り、血色が大分良くなっている。不謹慎とは思うものの、どうにも色っぽい。
「俺に出来ることなら引き受けてもいいけど」
デレデレした顔つきにならぬよう、気を付けて答える。
「矢吹さんなら出来るわ。だって、エグゼクティブな人材を紹介しているでしょう」
「あぁ、そうだけど」
「それなら人物を見る目が確りしている筈だわ」
紗希は中々、乗せ上手だ。
「うん、まぁ」
悟郎は、満更ではない調子で相槌を打つ。
「私がお願いしたいことは、東郷建設の次期後継者の選定について相談に乗って欲しいということなの」
「それは、渋谷専務か桐野常務か、どちらを選ぶべきか、アドバイスが欲しいということ?」
「残念だけど今は、その二者択一しかないわね。創業家としては、後継者選びは取締役会に任せると言い続けてきたのだけど、そうもいかない状況になってきて」
「うーん、それは責任が重いな」
上場会社の後継社長についてアドバイスするのは、さすがに荷が重い。悟郎はしばらく考え込む。そして気が付いたのが弁護士をしている史郎のことだった。
「シロー、ゴローコンビの向井史郎、知ってるよね」
「えぇ、もちろん。凸凹コンビ」
「あの史郎は今、弁護士をしているんだ。あいつなら、会社関係のトラブルや、後継者問題に詳しい。どうだろう、この相談は史郎にしたらいいと思うけど」
「そうだったの、あの史郎さんが弁護士、分かったわ、それじゃ、シロー、ゴローのお二人にお願することにするわ。それならいいでしょう?」
「あぁ、でも少し気になることがあって」
我妻から聞いたことが、ずっと心の中で蟠っていた。
「何?なんでも聞いて」
「それなら聞くけど、“東郷社長は、紗希さんの不倫を疑っていた”と我妻さんは言ったんだ」
「あぁ、そのこと。それは全くのでたらめ。私と桐野さんが不倫関係にあるという噂が流れているのは知っている。あれは、誰かが意図的に流した噂よ。そもそも私は、ああいうエリートタイプで野心家は、好きじゃない」
「分かった、信じるよ。俺もあのタイプは苦手だ」
先ほど、このリビングルームであったことを考えれば、紗希が桐野に好意を持っていないことが分かる。
「紗希さんの申し出は、明日にも史郎に伝えるよ」
悟郎は、そう約束すると立ち上がり、別れの挨拶をして東郷邸を後にした。
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