第四章 クラブ「アビアント」

 夜の銀座に来るなんて実に久しぶりである。社会人になってすぐの頃、上司に連れられて、接待の宴席に連なった時以来であるから、かれこれ一〇年ぶりであった。銀座八丁目のクラブ街は電飾看板が煌めき、夜の務めに出るホステス達が路上を行き交っていた。悟郎はその付近をしばらく彷徨って、ようやく目指すビルに行き着いた。そこは、バーやクラブが沢山入居するソシアルビルで、我妻から渡された名刺のクラブは、その五階にあった。入口の扉には「A bientot」という小さなプレートが取り付けられている。


「いらっしゃいませー」

扉を開けると、和服姿の女性が待ち構えていたかのように声をかけてきた。

「あのー、日本橋警察の我妻刑事とここで会う約束をしているんですが」

銀座のクラブということに、悟郎は気遅れ気味である。

「はい、はい、承知してます。アガちゃんから、連絡有りました。もう少ししたら着くそうよ」

「アガちゃん!?」

思わず口に出してしまったが、それが我妻刑事のこととすぐに思い当たり、なんとなく頷く。その女性は、この店のママの由香里だと自己紹介すると、先に立って、フロアの奥に案内した。左手にバーカウンターがあり、右側にメインフロアがある。数組の客がホステスと談笑しており、飲み物などを運ぶ蝶ネクタイ姿のフロアスタッフが歩き回っている。

「どうぞ、こちらにお掛けになって、何をお飲みになる?」

ママの由香里は、悟郎に一番奥のボックス席に座るように勧め、自分も向かい側に坐る。

「えーと、それじゃビール貰おうかな」

場慣れしていない悟郎がとっさに思いつくのは、ビール位しかない。

「カレンちゃん、こちらビールね」

ママが大声でバーカウンターに向かって注文を入れた。

しばらくすると、露出度の高いドレスをきた若い娘がやってきてカレンと名乗り、悟郎の隣に座った。カレンは陽気で、ぐいぐい押してくるタイプである。悟郎はその対応にへどもどしていたが、ようやく吾妻がやってきてホッとする。


「いやー、どうも暑いな」

我妻は急いでやってきたらしく、顔に汗をかいている。九月の中旬はまだ残暑の季節だ。

「いい店だろ、寛いでいるか?」

ママから渡されたおしぼりで、顔をゴシゴシと拭う。

「こういうところは、慣れていなくて」

悟郎が困惑の表情をして、しなだれかかるカレンを見やり、首を竦める。

「カレンちゃん、あんまり迫っちゃだめだよ。こちら迷惑しているじゃないか」

我妻は、ママが注いでくれたビールを、美味そうに飲み干す。

「いいじゃない。わたしのタイプなんだから、ねっ、迷惑なんかじゃないよね」

カレンが拗ねて口を尖らせる。

「はいはい、いい子だから大人しくあっち行って。おじさん達はこれからお仕事の打合せするんだから」

子供をあやすように我妻が言ったが、それでもまだカレンは愚図ついている。それを見ていたママが、引き立てるようにしてカレンをその席から連れ去った。


「それでは、先ずは乾杯するとするか」

我妻は、グラスを手で掲げる。悟郎も形だけ乾杯してグラスをテーブルに戻した。

「早速ですが、事件の話をしてくれませんか。どうも野暮で申し訳ありませんが」

「構わんよ、ノープロブレム! 仕事はいつだって優先するべきだ。話が終わったら、あんたはここの支払いを済ませてとっとと帰る。俺は残って酒を飲む。それで双方ハッピーってわけだ」

どうにもやり難い相手だが、話が早いのは大いに助かる。

「はぁ、それでは、警察が自殺と断定し、捜査を打ち切った理由や経緯について、なるべく詳しく話していただけないでしょうか?」

「詳しくと言われても困るがなぁ」

我妻はそう前置きして話し出した。

「あんたの知っての通り、東郷尚彦は高所から転落して死亡した。刺し傷や切り傷、絞殺などの痕跡は無く、財布などが盗まれた形跡も無かった。死亡推定日時は、その前の晩の十一時頃、司法解剖の結果だから間違いないだろう」

「そのあたりは、マスコミの報道で知っています」

「黙って聞けよ、順序立てて話しているんだから」

「はぁ、スイません」

ここは逆らわずに、低姿勢に徹するに限る。

「死亡推定時刻の少し前、旧館ビルの社員用通用口に設置してある防犯カメラに、尚彦が一人で入って行く映像が残されていたんだ。エレベーターで七階まで上がった痕跡もある。尚彦の指紋がついてる懐中電灯が、七階のエレベーターホールに残されていた。つまり、自殺か他殺かはともかく、自分の意思で旧館ビルに行き、七階まで行ったということは、物証があり紛れもない事実なんだ」

我妻が空いたグラスを差し出す。

「はぁ、自分一人で出かけたとなると、矢張り自殺と考えるのが自然かもしれませんね」

悟郎が、差し出されたグラスにビールを注ぐ。

「あぁ、他殺と裏付ける物証が有れば別だが、それが無い以上、自殺と考えるのが順当だ。その上、尚彦がうつ病を患っていたことが後になって判明してな、これがダメ押しになって、自殺とほぼ断定されたって訳だ」

「そのうつ病って、かなり重症だったのでしょうか?」

紗希からはそのようなことは、聞かされていなかった。

「いや、東郷かかりつけの医者の話しでは、軽度ということだった。しかし、うつ病は、自殺に至る危険が高い精神疾患でな、軽度であっても何かの拍子に、自殺してしまうこともあるということだ」

「そうですか。でも自殺だとしたら、東郷は何故、旧館ビルから飛び降りたりしたんでしょう?死に場所は他にいくらでもあるはずでしょう」

かねて気になっていたことを問う悟郎に、吾妻は教え諭すように言う。

「ふむ、それについては、捜査会議でも議論があってな。あのビルの七階に、先代社長が安置した観音像があるのを知ってるか?」

「いえ、知りません」

「先代社長は熱心な仏教徒だったらしい。それで自社ビルを作ったとき、七階のホールに観音像を祀ったのだが、尚彦はその観音像の前まで行っている」

「はぁ」

まだ話の筋が見えなくて、悟郎は間抜けな受け答えをしてしまう。

「捜査会議の結論としては、死ぬ間際に父親が大切にしていた観音像にお参りして、その後、七階の窓から飛び降りしたという結論になった。旧館とは言え、自社ビルだ。ほかの場所で死ぬより、人様に掛ける迷惑はずっと少ないしな」

「なるほど、一応理屈はつきますね」

我妻の説明に得心が行った悟郎であったが、それで引き下がるわけには行かない。紗希から頼まれたミッションがまだ残っている。

「他殺の物証は無いとのことですが、我妻さん、あなたは他殺についてどう思われているのでしょう?」

「警察としては、自殺と見て捜査終了したが、俺個人としては、まだ他殺の線を崩していない」

「それは、またどうして? 」

「遺書のような物証があれば自殺と断定していいが、そうじゃない。それに死んだ東郷を巡ってはいろいろあってな」

「それはつまり、殺人動機を持つ者がいるということですか?」

「ま、そういうことだ」

「もう少し、詳しく教えていただけませんか?」

悟郎は我妻にビールを注ぐ。

「一応捜査は終了しているので、話してもいいが、俺から聞いたことは他言無用だぞ」

注がれたビールを一息に飲み干し、念を押す。

「わかっています。私もヘッドハンターとしての矜持があります。情報源は必ず守秘します」

「ヘッドハンターとかいう得体の知れないものを信用するわけには行かないが、あんたという人間は人が好さそうだ。信用するとしよう」

「はぁ、まっ、いっか、では、殺人動機を持つ者とは誰なんでしょう?」

「あの会社には、派閥抗争があって、渋谷専務派と桐野常務派が、主導権を握ろうとして、激しい抗争を繰り広げている」

「そのようですね」

「東郷は、自分の後継を親族でもある桐野と公言し、次の株主総会では代表権のある副社長にする腹積もりでいたんだ。しかし、最近になってそれを撤回する意向を周囲に漏らしていた」

悟郎は、頷き次の言葉を促す。

「桐野の急激な事業多角化路線に懸念を抱いたというのが、表面上の理由だが、実のところは、桐野と紗希夫人との仲を疑ってのことらしい。そんな東郷の思惑を察知した桐野は、このまま時間が経過すれば、後継候補から外されると焦った」

“紗希さんが不倫!?”悟郎は内心驚き思考停止状態に陥る。

「おい、俺の話し聞いているか?」

我妻が悟郎の顔を覗き込む。

「あっ!聞いています。つまり、桐野は、東郷社長が死ねば、後継社長は、ほぼ間違いなく自分のものになると考えた」

「可能性としては、そういうこともあり得るという、まぁ仮定の話だがな」

「なるほど」

「もう一方の派閥の渋谷専務の殺人動機だが、東郷は役員定年制の導入を計画しており、専務取締役の場合は七十五歳で定年とする案を渋谷に示した。それに対し、今年七十三歳の渋谷は、あからさまな、自分に対する追い落とし策だとして猛反発したんだ」

「いくつになっても権力の座にしがみつく者がいますからね」

「渋谷専務は、まぁ、大番頭とでもいうのか、創業時代からのたたき上げで、東郷社長にとって、目の上のこぶのような存在であったらしい。経営の近代化を図る東郷にとって、守旧派のボスである渋谷を早く排除したかったのだろうが、これがなかなかに強かで、反社会勢力と今も裏で繋がっているらしい。こんな奴だから、東郷も相当手を焼いていたんだ」

「東郷社長が死ねば、役員定年制は一旦沙汰やみになり、あわよくば社長の座が転がり込んでくるかもしれないと」

「ま、そんなところだが、あくまで仮定だぞ」

「他にも殺人動機を持つ者がいるのでしょうか?」

「そんなに急かすなよ、ちょっと喉を潤さないことには話を続けられんよ」

悟郎は、我妻のコップにビールを注いでやる。我妻はそのビールを美味そうに飲む。

「あとは、所謂、痴情のもつれというやつだな」

「男女関係で恨みを持つ者がいたということですか?」

「東郷は、自分の秘書だった女と出来ていたんだ。東郷が、今の夫人と結婚する段になって、邪魔な存在になり、強引に別れたのだが、恨みを残すことになった」

「これまた、よくあるケースですね」

「社長と女秘書ってか、まったくベタな話だよ。社内では公然の秘密だったらしい」

「殺したいほど恨んでいたのでしょうか?」

「東郷が結婚したのが、自分と同じ女子社員だったことが、その女のプライドをえらく傷つけたということだ。別れ話に逆上して、刃物を持ち出すなど、修羅場を演じたんだ。女の恨みは恐ろしい」

「紗希さんはそんなことがあったなんて何も言わなかったけど」

「略奪結婚まがいのことをしたとは、自分の口からは言えんだろうが」

「はぁ、略奪結婚ですか」

悟郎は力なく返事して考え込む。

“紗希さんの過去にどんなことがあったんだろう。略奪結婚だの、不倫だのって、訳わからない”

悟郎は、紗希のことを何も知らないことに、今更ながら気づくのであった。

「さぁ、もういいだろう、話はこれで終いだ。あんたは、さっさと帰っていいんだぞ。それとも、何か、カレンちゃん呼んで、もっと飲むか?」

「いえいえ、これで失礼します。ありがとうございました」

悟郎は、慌てて答えると、支払いを済ませ、あたふたとしてアビアントを退散した。

         

アビアントのあるソシアルビルから街に出た。辺りは客を見送るホステスの嬌声や、酔客の笑い声で騒々しい。悟郎は裏路地に入り、スマホを取り出した。メールのチェックをしようとして、紗希からの電話着信記録に気づく。

「もしもし、電話くれた?」

「えぇ、我妻刑事との話は済んだ?」

「今、話を終えて店を出てきたところだけど」

「そう、詳しい話を聞くことは出来た?」

「あぁ、出来たよ。それに他殺に関することも」

「そう、それなら早く知りたい。お疲れの所、申し訳ないけど、こちらに来てくれないかしら」

腕時計を見ると八時半を少し過ぎている。

「こんな時間に未亡人の自宅に訪問していいのかな?」

少しおどけた調子で答えたが、内心は不倫の件について会って話を聞きたい。

「深夜というわけでもないし、そんな気遣いは無用よ。矢吹さんらしくない。私一人きりなら問題かもしれないけど、住込みの家政婦もいるし」

「らしくないって、まっ、いっか。でも今夜は夕飯抜きだったので、腹が減って、そこらで何か食べてから行きたいんだけどいい?」

「こちらは構わない、ゆっくり食事してきて」

「なるべく早く行くよ。成城学園前に着いたら電話するから」

「わかった。いつも無理ばかりでごめんなさいね。それではお待ちしています」

電話を切ると悟郎は、新橋方向に向け歩き出した。途中にラーメン屋位あるだろう。


               ◇◆◇


 悟郎と我妻が銀座のクラブで話し合っている同じころ、桐野は赤坂の料亭で、取引先メインバンクの役員と歓談していた。柴田も同席している。別室の宴席から、三味線の音が微かに聞こえてくる。


「ご指摘のように、部長・課長クラスの中には、今でも渋谷専務に忠義を尽くす者がいます。渋谷専務に睨まれると怖いという意識がまだ抜けないのでしょう」

桐野が苦々し気に言って、メタルフレームの眼鏡に手をやる。

「渋谷専務は執念深いという話しだし、なにやら得体の知れない連中と繋がっているそうじゃないか」

銀行役員は、柴田の酌を受けながら桐野の表情を伺う。

「いやまったく、困ったもんです。上場企業の役員が反社会勢力と繋がっていることが世間に知れたら大変なことになります。それでも、義理と人情を捨てるような真似はできないとか言って、腐れ縁を続けているんです」

「それが事実なら、メインバンクとしても看過できない問題だな」

「例え噂としても、裏社会との繋がりがある者を、後継社長にしてはなりません」

桐野は、我が意を得たりと勢いづく。

「はは、つまり、次期社長は桐野さん、あなた以外にはいないと」

「恐れ入ります。社内の体制固めはほぼ済んでおります。後は、債権者であり、大株主の銀行団の意向次第ということなので、ご支援、よろしくお願いします」

桐野が深く頭を下げるのを見て、柴田もそれに倣う。

「ところで、大株主と言えば、社長夫人の意向はどうなんです?」

「紗希さんは、必ず支援してくれると思っております。紗希さんは東郷社長が、渋谷専務を役員から外そうとしていたのをご存知です。それに紗希さんとは、ニューヨーク時代から昵懇の仲ですから」

「いや、それならいいんだがね。銀行内部では、創業家の意向を重視するべきだという者が少なからずいるものだから」

「確かに創業家の意向は重要です。社長夫人には、引き続き支援要請をしてまいります」

「あぁ、確り頼みます。さてと、私はここらで失礼させて貰います。実は、この近くのホテルで、昵懇にしている政治家がパーティーを開いていてね。顔だけでも出して帰らないとまずいもんで」

「分かりました。本日はお忙しいところ、有難うございました」


 桐野と柴田は、銀行役員を料亭の玄関まで見送って座敷に戻る。

「常務、予定より大分早く終わりましたね。まだ九時前です。二人で飲み直しますか?」

柴田が腕時計を見ながら桐野に聞く。

「君と二人で飲むのは気が進まんな。さてどうしたものか」

桐野は、細身のメタルフレームの眼鏡に手をあて思案する。柴田は、そんな様子を見て、桐野が口を開くのをじっと待つ。

「私はこれから、成城の東郷邸に行くことにする」

「えっ!これからですか、またどうして?」

「創業家の意向が大事だということが改めて分かった。そうだろう?」

「えぇ、それはそうですが、夜間に押し掛けるのは、ちょっとまずいのでは」

「いや、夜だから好いのだよ。私に考えがある。君は帰っていいぞ」

桐野はにやりと笑って、柴田に車の手配を命じた。


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