第二章 転落死

 東郷建設の本社ビルは、都心のビジネス街にあり、二十八階建ての高層ビルである。最上階部分に役員クラスの執務室があり、その中の一室で、桐野とその腹心の部下の柴田が、密談をしている。

「で、どうなんだ、その後、うまく進展しているか?」

公的な場や、親しくない人の前では煙草を吸わない桐野だが、自室や身内の集まりなどでは、ヘビースモーカーに変身する。今も煙草に火をつけて、柴田に問いかけた。

「部長・課長クラスへの工作は順調に進んでいます。すでに過半の者が、我が派閥に属したと見ていいでしょう」

真面目な銀行員といった感じの柴田が、やや得意げに報告する。柴田はリゾート事業部長で、同期で最も早く部長に抜擢された男であった。

「ふむ、そうか。では、労働組合はどうなっている」

「労組への工作はやや難航しています。委員長が中立の立場なので、渋谷専務派は、副委員長の取り込みを図っているようです」

「あの副委員長は、食えない男で信頼がおけない。この際、ほっておいてもいいだろう。それより、若手の取り込みを強化した方がいい」

「若手社員は、渋谷専務の守旧的なやり方に反発しています。桐野常務が次期社長になることを、大半の者が待望していることは間違いありません」

「するとあとは、取締役連中の意向次第だが、今、取締役会の勢力は、ほぼ拮抗しているとみていいだろう。もう何人か我が陣営に引き込めればいいのだが・・」

「取締役への工作は、私には少し荷が重いので、常務が直接働きかけていただければと存じますが」

このあたりが柴田の世渡り上手なところで、大事なポイントで上司に頼ることを忘れない。

「わかっている、あの連中は私がなんとかする」

頼られた桐野も満更ではなく、鷹揚に請け負った。と、そのとき、、梧郎が来社し面会を求めているとの秘書から電話があった。


 役員用の応接室に通された悟郎は、しばらく待たされたが、やがてやってきた桐野と柴田に挨拶をした。初対面の柴田とは名刺の交換を行う。

「先日は、大変お世話になりありがとうございました。あのとき助けていただけなかったら大惨事になるところでした」

桐野が改めてお礼を言う。

「イチかバチかでしたが、うまく行って良かったです。でも、社長夫人は大層お疲れのようでしたが、その後、お元気でおられますか?」

「あなたにお会いすることを電話でお伝えしましたが、元気なご様子でした。くれぐれもよろしくお礼申し上げるようにとのことでした」

「そうですか、それなら安心です。ところで仕事の依頼ということですが」

「実は、現在、奥軽井沢で総合リゾート施設を建設中でして、来月には完成の段階になっています。ところが、現地総支配人に予定していた者が、事故で大けがを負いましてね。リハビリなどもあるので復職は大分先になるとのことです。それで、急遽、その代わりの人材を募集しなくてはならなくなりまして」

「それは、大変ですね。でも社内に、その任にあたれそうな人材はいないのですか?」

「リゾート業務経験があることが必須条件です。それに、大型リゾートの総支配人ともなれば、数百人の従業員を管理しなくてはなりませんから、社内の人材ではとても対応できません。他社リゾート施設で、陣頭指揮しているような即戦力の人材をスカウトして欲しいのです」

「わかりました。出来るだけの協力をしますので、求める人材についての詳しい話をお聞かせください」

「お引き受けいただけるようで安心しました。詳しいことは、リゾート事業部長の柴田から説明させます。私は、この後、所要があるので、これで失礼しますが、よろしくお願いします」

桐野は応接室を出て行き、残った柴田が悟郎に人材採用の詳細を説明した。大型リゾートの総支配人は、一見、紹介が難しそうな案件であるが、必要とされる経験やスキルが特定されているので、ヘッドハンターとしてはそれほど難しいオーダーではない。


               ◇◆◇


 暗闇が突然切り裂かれて、ぽっかりと四角い空間が浮かび出た。エレベーターの扉が開き周辺を照らしたのだ。中に誰かいるようだが逆光で定かでない。その人物がエレベーターから降り立つと、扉が閉まって辺りは再び暗闇に戻った。

 しばらくして、照明が点いた。壁の照明用スイッチを探し当て、スイッチを入れたらしい。エレベーターから降り立ったのは東郷尚彦であった。そこは、広めのエレベーターホールで、がらんとした空間であった。

 尚彦は、数メートル先の大きなドアに向けて歩み寄り取手を引いた。開けたドアから部屋の中に光が流れ込む。しかし奥までは届かない。尚彦は、用意してきた懐中電灯を点けると、奥に向けて進みだした。暗い部屋の内部はかなり広く、尚彦は慎重に歩いていたが、やがて立ち止まった。

 懐中電灯の光に照らされて黄金の観音像が、闇に浮かび上がる。この部屋の一番奥は、数段高くなっていて、そこに観音像が祀られていた。尚彦は、観音像に礼拝するでもなく、祭壇を照らして、何かを探す様子。と、懐中電灯の光が、事務用の茶封筒を捉える。尚彦はそれを取り上げると、中に写真が入っているのを確かめ、背広の内ポケットから白い封筒を取り出してそこに置いた。足早に部屋の入り口に戻り、照明で明るいエレベーターホールに出て、周囲をぐるりと見まわす。そして、何かに気付いたようで左を向く。その視線の先に、大きく開いた窓があった。尚彦は引き寄せられるように、その窓の方に歩み寄った。

 その時、辺りは闇に包まれた。暗闇の中、人と人が揉み合うような物音と、「誰だ?」「やめろ!」という尚彦の声、続いて短い悲鳴がした。しばらく、静寂が続いたが、照明が再び点いて辺りが明るくなる。尚彦の姿は無く、目出し帽をかぶり、手袋をした手に茶封筒を持つ人物が一人立っている。その前には、スライド式の引違い窓が開いていた。その人物は、窓から身を乗り出して、下の様子をしばらく伺っていたが、向き直り、多目的ホールの入口に向けて歩き出した。扉を開き、懐中電灯を点け、足早に奥に進み、祭壇に置かれた白封筒を取り上げ、ズボンのポケットにしまい込んだ。そして、エレベーターの前まで戻ると、傍らの壁の照明スイッチを切った。


                 ◇◆◇


 昼ごろ目を覚ました悟郎は、インスタントコーヒーを飲み、トーストを齧りながら、パソコンに向かい新聞社のニュースサイトを開いた。するとトップニュース欄に、「東郷建設社長転落死」という見出しがあったので驚いた。齧りかけのパンをテーブルに放り投げ、見出しをクリックして記事の詳細を見た。


≪東京・日本橋の東郷建設(東証一部上場)の旧社屋の敷地内で、社長の東郷尚彦さん(五十二歳)が死亡しているのが見つかりました。ビルの高い場所から転落死した状況や、防犯カメラの記録から、警察は、自殺の可能性が高いとみて捜査を進めています。なお、同社広報によると、葬儀は関係者のみの密葬で行われ、告別式は社葬として執り行われるとのことです≫


 東郷建設は、求人の依頼を受けているクライアントである。未亡人となった紗希のことも気になり、社葬に参列しようと思い、東郷建設のホームページを開いた。そこには、社長が急死したことが簡潔に記載されており、社葬は、九月八日、青山葬儀場で執り行われるとのことであった。


                ◇◆◇


 青山葬儀場には、沢山の車と、大勢の人が押し寄せていた。悟郎は、一般参列者の最後尾に並び、数十分してようやく斎場の中に入った。場内には焼香の匂いが立ち込め、大勢の僧侶による読経や鉦の音が響いていた。正面には白い花で埋め尽くされた巨大な祭壇があり、その前に和装の喪服姿の東郷紗希がいた。少しやつれたようにも見えるが相変わらず美しい。悟郎は、紗希が喪主の務めを果たすことに懸命な様子を見て、〈自分ごときが声をかけるまでもない〉と思い、焼香を終えて帰ろうとした。そのとき、思いがけず紗希が悟郎の姿を認めて近づいてきた。

「相談したいことがあるので、どこかでお会い出来ないでしょうか。落ち着いたら連絡するのでよろしくお願いします」

周囲に気を使い、声を潜めて用件だけを言う。悟郎は、戸惑いながらも、大きく頷き返事をする。

「分かりました。連絡お待ちしています」

悟郎の返事を聞くと、紗希は素早く喪主の席に戻って行った。


                ◇◆◇


 それから数日後、神楽坂の奥まったところにあるイタリアンレストランで、二人は向き合っていた。

「このたびはどうも、改めてお悔み申し上げます」

悟郎が神妙に頭を下げる。

「告別式にお越しいただきましてありがとうございました」

紗希は服喪期間中ということなのであろう、黒のレース入りワンピース姿である。

「喪主の勤め、大変だったでしょう。お疲れじゃありませんか?」

「色々なことが、一度にあったものですから、大変でした。眠れない夜が続いたりして、一時は心身とも疲れ果てました」

「夜に外出したりして大丈夫ですか?」

「いつまでも、家の中ばかりでは、息が詰まります。たまには外でお食事でもしたいと思っていたところだったので、勝手ですけど、お呼び立てしました」

「それならいいのですが、それではとりあえず乾杯しますか・・・いや乾杯は不謹慎か」

「いいえ乾杯しましょう、大学時代の思い出に」

「えっ!今、なんて・・・?」

意外な紗希の言葉に、つい声が大きくなる。

「あなた、大学同期のシロー、ゴローコンビの矢吹悟郎さんでしょう?」

悟郎は、驚きながらもうれしそうに頷く。

「ええ、そうです。でも学生時代は部活とアルバイトに明け暮れして、教室には滅多に顔を出さなかったので、俺のことなど目に入っていないと思っていたけど」

「学部も違っていたし、教室ではめったにお会いしなかったけど、風変わりな二人組がいるなって気になっていたから」

紗希はいたずらっぽく微笑む。

「風変わりな二人組って、まっ、いいか。それより貴女です。貴女は矢張り、あの工藤紗希さんだったのですね」

「はい、旧姓は工藤でした」

「貴女は俺たちのマドンナでした。たしか学園祭でミスキャンパスに選ばれましたよね」

「いえ私は準ミスでした。私は愛嬌が無いから人気がなくて」

「女子学生はどうか知りませんけど、男子学生には人気絶大でした。それはともかく、うれしいです。乾杯しましょう」

悟郎は笑顔で、ワインのグラスを持ち上げた。

「えぇ、学生時代に乾杯!」

紗希も笑顔でグラスを合わせた。

「乾杯!」

学生時代の同期と分かり、ワインの酔いも手伝って、二人は急に打ち解けた気分になる。

「私だってこと、すぐに気付いた?」

自ずと他人行儀な言葉遣いから、フレンドリーな言葉遣いになる。

「ベンツから降りてきたのを見て、はっとしたよ。紗希さんによく似た人だなって」

「それならそうと言ってくれれば良かったのに」

「でも、その後、話してみると学生時代とはまるで雰囲気が違うので、他人のそら似だと思い直した」

「そう、私そんなに変わったかしら」

「なんかセレブで大人の女って感じがしたけど、こうして話してみると学生時代と、あまり変らない気がしてきた。不思議だね。それより、紗希さんは、いつ俺のことに気付いた?」

「桐野さんからあなたの名刺のコピーが送られてきて、矢吹悟郎ってあったものだから」

「なんだ、顔を覚えていたんじゃなかったのか」

「えぇ、まぁ」

「そう、やっぱりね」

やや失望したものの、その後しばらく学生時代の楽しい思い出に話が弾んだ。


「名刺にヘッドハンター、サーチ&スカウトって書いてあったけど 調査の仕事もするの?」

悟郎に促されて、紗希が用件を切り出した。

「もちろん。人物調査と企業調査はヘッドハンターにとって欠かせない重要な業務だよ」

「そう、それなら、東郷の転落死の件で調べて欲しいことがあるの、お願いできる?」

「あの事件は、自殺と断定されたんじゃなかったかな?」

マスコミで報道されていたことを思い出し悟郎が聞き返す。

「えぇ、捜査を担当した刑事が、自殺とほぼ断定したと報告しに来たわ。でもあの頃、私は動揺していて詳しい話を聞くことが出来なかったから」

「うん、そうだろうね」

「後になって、東郷が何故自殺したか、詳しい理由を知りたいという思いが強くなって、あれこれ悩んでいた時に、貴方のことを思い出したの」

「へぇそれは光栄の至りだね」

悟郎は、少しおどけて相好を崩す。

「あなたなら相談に乗ってくれると思った」

紗希は、真面目な態度を崩さない。

「分かった。具体的にはどのようなことをすればいいのかな?」

「日本橋警察の我妻という刑事に会って、自殺と判断した詳しい理由を聞いてきて欲しいの」

「それ位のことなら引き受けてもいいけど、紗希さん、貴女が直接会って聞いた方がいいんじゃないかな」

「服喪中の未亡人が、警察に出かけて説明を求めるのは憚られるわ。一度は報告を受けていることだし」

「それもそうか。では紗希さんのエージェントとして、その刑事に会ってみるよ。それでいいかい」

「えぇ、それでいい。でも、出来たら他殺の捜査の進展状況も聞いて貰えると有難いわ」

「えっ!どういうこと」

「その我妻という刑事が報告に来た帰り際に、個人的には他殺の疑いを捨てきれないと言って帰ったの」

「分かった。もし聞けるようなら聞いてみる」

悟郎は、紗希から日本橋警察署の我妻刑事の名刺を見せてもらい、姓名と連絡先の電話番号を、スマホのメモ帳に記録した。


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