第一章 ヘッドハンター
碓井軽井沢インターから上信越高速道路に入ると直ぐに長いトンネルがあり、そこを通り抜けてようやく視界が開けた。真夏の午後の日差しが眩しくて、矢吹悟郎は、ダッシュボードからサングラスを取り出して掛けると窓を全開にした。古い型式の外車のピックアップトラックは左ハンドルで、日本の道路を走るには多少の難はあるものの、その武骨な造りが気に入って、悟郎は長年乗り続けている。窓から吹き込む風は、避暑地である軽井沢付近ということで、爽やかであった。
悟郎の仕事は、フリーランスのヘッドハンターであり、三十歳で会社勤めを辞めて、この仕事に就いてかれこれ三年が経ったところである。会社勤めと違って、スケジュールを自由に組むことができるのがフリーランスの良いところで、ここ数日、仕事に隙間が出来たので、大学時代の友人の軽井沢の別荘に来て読書三昧をしていたのだった。しかし、エグゼクティブクラスの人材を紹介するという仕事の性質上、クライアントやキャンディデイト(紹介候補者)からの急な面談要請は珍しいことではない。今こうして車を走らせているのは、明日、急遽、重要な面談案件が発生したからであった。
もうしばらくすると、横川のサービスエリアである。釜めしを食べようなどと呑気にステアリングを握っていたのだが、前方を走行する車の動きが何やら妙であることに気付いて目を凝らした。その車は大型の乗用車で、右や左に振れて走行しており、時にはガードレール擦れ擦れまで大きく寄ったりして、尋常な走りではない。
悟郎はアクセルを踏み込んで、その乗用車に近づいた。その車は、大手企業の役員クラスが使用するような黒塗りのベンツであり、若者がふざけて運転するような代物とは違う。更に近づいて内部の様子を後方から伺うが、内部まではよく見えない。中を確認するには、その車と並走して、側面から見るしかないと思うものの、左右に蛇行する車に並ぶのは、容易ではない。悟郎は、並走する機会を窺い、しばらくその車を追尾するように走っていたが、ベンツが左に寄ったときに加速して進み出て、その車の右側につけた。そのときベンツの後部座席の窓が開いて、女性が悟郎を見て叫んだ。
「助けて!この車を止めて!」
悟郎の車も左ハンドルで、窓を全開にしていたので、必死に叫ぶ女性の顔が間近に見てとれた。何か緊急事態が生じたに違いないと思ううちに、ベンツの中から、男の叫び声が続く。
「止めてくれ! 運転手が気を失った」
悟郎は、接触しないように注意深く運転しながら、ベンツの中を窺った。その車も左ハンドル仕様である。運転手らしき者は、がっくりと首を垂れ、不自然な姿勢でシートベルトに支えられている。その体を押しのけるようにして、後部座席の男性が、身体を前に大きく乗り出して、ステアリングを握っていた。高速道路走行中に運転手が気を失い、後部座席の同乗者がハンドル操作をしているらしい。
“超ヤバイ!”
しかし、どうしたら車を停止できるか、咄嗟のことで対応策が思い浮かばない。
「早くなんとかしてくれ!もう限界だ」
悲鳴のような切羽詰まった男の声である。対応策をあれこれ考えている猶予はないようだ。
“こうなりゃ、イチかバチかでやってみるしかない”
悟郎は決断すると大声で呼び掛けた。
「これから前に回り込む。速度を徐々に下げて停車させる」
悟郎の声が届いたのであろう、男が叫び返す。
「わかった、はやく頼む!」
悟郎は覚悟を固めると、前に回り込みスピードを下げた。悟郎の車は、中古のシボレー・シルバラードで、幸い車体が大きく頑丈である。何とかなるかもしれない。
ベンツが追突したガツンという衝撃があり、バックミラーで後ろを見る。追突の衝撃で、後続のベンツとの距離が少し開いた。
「ハンドルを確り握っていろ!」
後ろの車に声が届くわけがないが、叫ばずにはいられない。ブレーキを更に踏み速度を下げると、また、追突する衝撃があった。しかし、先ほどの衝撃よりは軽いものであった。その後、何度か追突されながらスピードを下げ続けて、ようやく二台の車は、路肩に停車した。一息入れながらバックミラーに目をやると、ベンツの後部座席から降りた男が、運転席のドアを開けて何やらしている様子が見て取れた。悟郎もエンジンを切り、パワーブレーキをかけて車を降りて、男に近づいて声をかけた。
「大丈夫ですか?」
男は、悟郎に呼びかけられても、しばらく放心状態のようであったが、ややあって緊張が解けたのか、ようやく声を絞り出した。
「運転手が失神してコントロールが利かなくなって、危機的状況でした。あなたのお蔭で助かりました」
四十歳代と思われるその男は、高級そうなスーツを着ており、エリートビジネスマンといった風である。後部座席の女性も車を降りてきた。リゾート風の丈長の白いワンピース姿であるが、直前の恐怖体験が冷めやらないのだろう、その足元はおぼつかない。年の頃は三十代前半か、すらりとした容姿、目鼻立ちの整ったその顔は青ざめ、まだ強張っていたが、悟郎に向き合うと表情を幾分か緩めて、礼を述べた。
「ありがとうございました。一時はもう助からないと覚悟したのですが、助けていただいて、本当にありがとうございました」
「顔色がすぐれないようですが、怪我などしていませんか?」
「私たちは大丈夫です。でも運転手が心配で・・・」
言われて悟郎は、乗用車に近寄り、運転席の中に頭を突き入れ、不自然な姿勢で俯いている運転手の顔を覗き込んだ。続いて手首の脈を探る。
「脈はある、息も幽かだがしているようだ。救急車を呼びましょう」
悟郎は振り返って、背後で悟郎のすることを眺めていた男に告げた。男は、舌打ちをして眉根を寄せ、いかにも忌々し気な様子であったが、それでも「私がやります」と、連絡役を引き受け、てきぱきと救急車の手配や関係先への連絡をした。いかにも有能なビジネスマンといった身のこなしである。背丈は悟郎と同じ一七八センチ位ある。スポーツマンのような引き締まった体形をしているが、細身のメタルフレームの眼鏡を掛けた彫の深い顔は、学究肌の研究者のようでもあった。
悟郎は、運転手のシートベルトを外し、リクライニングを倒して運転手を仰向けに横たえた。その間も女性は心配そうに悟郎の行為を見ていたが「後は私がやります」と言って、悟郎に替わり、運転手のネクタイや衣服を緩めるなど介抱を始めた。
救急車がやってくるまでには、少し間がある。それまでに追突防止のための措置をしておくべきと思い付き、自分の車の荷台のボックスから、三角表示板や発煙筒を取出した。男も悟郎の意図を察したのだろう、上着を脱ぐと、二台の車の後方に着火した発煙筒を置くなど追突防止処置に協力した。炎天下の作業をしたので二人とも汗まみれである。作業が一段落し、男はハンケチで顔を拭うと、車内に脱ぎ捨てた上着を拾い上げ、内ポケットに入れてあった名刺入れから名刺を取り出して自己紹介した。
「改めてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。私は東郷建設の桐野と申します。もしよろしければ、名刺を頂戴できるでしょうか?」
わたされた名刺には、東郷建設株式会社常務取締役 桐野達郎と記されてある。東郷建設は準大手のゼネコンで確か東京証券市場一部上場企業であったと記憶している。悟郎はシルバラードの助手席のバッグから名刺をとりだして桐野に手渡した。
「えーと、ヘッドハンター・・・ですか?」
ヘッドハンターとの肩書印刷がある悟郎の名刺を見て、桐野は怪訝な表情である。
「えぇ、フリーランスの人材紹介業をしています。日本では、サーチ型人材紹介などと呼ばれてますが」
「あぁ、なるほど人材ビジネスをなされているのですね」
「えぇ、まぁそういうことです。ところで運転手は大丈夫ですかね」
運転手のその後の様子が気になった悟郎は運転席に近づき女性に声を掛けた。
「どんな様子ですか?」
「脈はあるけど、呼吸のほうが・・・、早く救急車こないかしら」
この様子だと、救急車が到着する前に心肺機能が停止するかもしれない。人口呼吸や、心臓マッサージのやり方はどうだったかなどと思う内に、緊急車両のサイレンが遠く聞こえてきた。どうやら救急車が近づいてくるようだ。
救急車と小型の消防車両が同時に到着した。救急車から降り立った救急隊員達が、運転手の応急処置を施しストレッチャーに乗せ、救急車の中に運び入れる。桐野が別の救急隊員に事情説明をしていたが、そうこうしているうちに、救急車がサイレンを鳴らして病院に向けて動き出した。
「厚かましいお願いですが、もし東京方面に行かれるようでしたら、一緒に乗せていってくれないでしょうか?」
走り去る救急車を見送っていた悟郎に、女性が近づき話しかけた。
「はぁ、東京に戻る途中だから、お乗せするのは構いませんが・・・」
悟郎が突然の申出に戸惑っていると、救急隊員への説明を終えた桐野も悟郎のもとにやってきて口添えした。
「私からもお願いします。この後、警察もやってくるそうです。私は、その対応をするために、しばらくはここにいなければなりませんので」
「そういうことならお乗せしてもいいですが、ご覧の通りのぼろ車だから、乗り心地は悪いですよ」
「それは構いません、早く東京に帰らなければならないのでお願いします。桐野さんには、申し訳ないけど」
桐野は滴る汗を手で拭いながら答える。
「ここは私に任せて、どうぞお先にお帰り下さい」
「それじゃあ、警察が来る前に退散するとしますか」
「よろしくお願いします」
悟郎は、女性をエスコートして助手席に乗せると、シルバラードをスタートさせた。
「申し遅れましたが、私、東郷と申します。危ないところを助けていただいた上に、厚かましいお願いをしまして申し訳ありません」
走行車線に入り安定走行状態になるのを見計らったように、助手席に座った女性が自己紹介した。
「東郷さんというと、東郷建設の関係者の方ですか?」
桐野が東郷建設の常務であることを思い出して訊ねた。
「えぇ、主人が東郷建設の社長をしています」
「はぁなるほど」
社長夫人と聞いて、助手席に座る人の横顔を、思わず見やってしまったが、それにしても美しい女性(ひと)である。どこかで会ったような気もするが、こんなセレブとはまるっきり縁がない人生だったので、多分、思い違いだろう。
「ところで、ご自宅はどちらですか?」
「世田谷の成城です。あっ、でも、都内に入ったら最寄りの駅で降ろしていただければいいですから」
「いや、成城でしたら大した手間ではありません。ご自宅まで送りますよ」
「危ないところを助けていただいた上に、自宅まで送っていただくなんて厚かましい限りですが、そうしていただくと本当に助かります」
「お安い御用です、気にしないでください」
たとえ回り道であっても、独りドライブするより、美人を助手席に乗せてのドライブの方がずっと増しである。
悟郎が、東郷社長夫人を成城の自宅まで送り届けたのは夕刻の六時頃であった。家に上がるように引き留められたが、悟郎は固辞して、シルバラードに乗り込み東郷邸を後にした。そんな悟郎の車と入れ違うように、東郷邸の車寄せに、黒塗りの大型車が滑り込んできて停車した。運転手が開けるドアから降り立ったのは、東郷建設社長の東郷尚彦であった。
「大変な事故だったそうだが、怪我はないか?」
リビングに入るなり尚彦は聞いた。
「お帰りなさい。心配かけてごめんなさい。私は大丈夫だけど運転手がその後どうなったか気がかりで」
「病院に運び込まれたときは、すでに心肺停止状態だったらしい。その後、死亡が確認されたそうだ」
「そう、誠実な人柄の方だったのに、お気の毒」
「会社としても出来るだけのことはするつもりだ。それはともかく、事故の時、桐野と一緒だったそうじゃないか」
「ええ、桐野さんは、財界セミナーに出席するため軽井沢に来たついでに挨拶に寄ったとのことでした。ちょうど東京に帰ろうとしていた時だったので、一緒に乗せて貰ったのだけど、あんなことになってしまって」
「桐野は何を考えているんだ。なにも別荘にまで挨拶に来る必要はないだろう。それにお前も桐野の車に乗せて貰うなんて配慮がたらん」
尚彦は、苦虫を噛み締めたような表情である。
「済みません、軽はずみでした」
「あぁ・・・ところで、危ないところを助けてくれた人がいたそうじゃないか」
「えぇ、あのときは本当に助かりました」
「その人の名前や連絡先はわかるのか?私からも礼をしなければならない」
「桐野さんが、その方と名刺交換していましたから、名前や連絡先はわかると思います」
尚彦は頷くも、顔を顰めて、何事か考える様子であった。
◇◆◇
江東区の古ぼけたマンションの一室が悟郎の事務所兼自宅である。二LDKの玄関寄りの一部屋に執務用のデスクと小ぶりの応接セットが置かれていて、これをもって一応事務所ということにしている。そんな事務所だったので、大方の用向きは都心のホテルのロビーやカフェで済ませるのが常であった。東郷建設の社長秘書と名乗る男から、訪問したい旨の電話があったときも、会うなら他の場所でと言ったのだが、どうしても訪問したいとの申し出だったので、やむなく承知したのであった。
「わたくし、東郷建設社長秘書の田上(たのうえ)と申します。矢吹悟郎様でございますね」
細身の黒のスーツ姿、秘書らしい愛想笑いは一切なく無表情である。爬虫類を思わせる顔つきで、なにやら一種異様な迫力がある。
「えぇ、そうですが」
「先日お助けいただいた謝礼として、社長から預かってきたものをお届けにあがりました。どうぞ、お納めください。」
封筒を悟郎に差し出し、じっと悟郎を見据える。
「はぁ、それはどうも」
有無を言わせない田上の迫力に、悟郎はなんとなく気圧され、封筒を受け取ってしまった。しかし玄関先でのやり取りであることに気づいて「こんなところではなんですから、どうぞお上がりください。」と勧めるが、「いえ、どうぞお構いなく、謝礼の品をお渡しするだけが私の役目ですから」とにべもない。
「それでは、これで」
用事を済ませて帰ろうとする田上にあわてて声を掛ける。
「あの、ひとつ聞いてもいいでしょうか、社長夫人はお元気にしていますか?」
「私は、社長のお身内のことは存じません。下にタクシーを待たせているので失礼します」
田上は、相変わらずの無表情でそれだけ言うと、立ち去ってしまった。取り付く島もないとはこのことで憮然としていると、電話のコールがした。気を取り直して電話に出る。
「はい、矢吹事務所」
「東郷建設の桐野です。先日はありがとうございました。あの時のお礼といってはなんですが、仕事を頼みたいのですが」
「仕事?ヘッドハンターの仕事ですか?」
「ええ、幹部社員の採用の件でご協力願えないかと思いまして」
「そうですか、仕事の話でしたら、一度お会いして相談させてください」
「わかりました。それでは改めてお会いできる日時をお知らせします。では・・・」
桐野の電話も随分と素っ気ないと思いつつ、田上から受け取った封筒を開けてみた。中には東郷建設社長の東郷尚彦名義の礼状と、百万円の小切手が入っている。礼状は、妻の東郷紗希を救ってくれたお礼の言葉と、運転手が救急搬送先の病院で亡くなったなどの顛末が書かれてあった。また、事故の原因にも簡単に触れていた。運転手は、高速道路をオートクルージングモードにして走行していた為、失神しても減速せずに走り続けたことが、その後の警察の調べで分かったと記されていた。小切手は、謝礼プラス追突時のバンパーの傷の修理代ということのようであった。
悟郎は社長夫人の名前が紗希であることを知り、大学時代の同期の工藤紗希と気付いた。
“どこかで見たことのあるような人だと思っていたが、やはりそうだったか”と心中で呟き、納得したのであった。工藤紗希は男子学生にとり、マドンナ的な存在の女性だったのだ。
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