番外編

おとなのこいびと観察記

「お泊り?」


「ああ」


 夕食の片付けも済んだところで私が持ちかけた提案に対するハーシュの返答はオウム返しだった。


「リーリの父親が数日王都を離れるそうでな。アルカのところで預かる予定だったそうなんだが、工房の繁忙期と重なったらしいんだ。夜も炉の火を絶やさないそうで、子供二人を面倒見るのは難しいと」


「それでウチに、ですか」


「ちょうど二人の個別指導も最終段階だ。昔お前に教えたように、泊りがけで回路の書き方を叩き込んでもいい頃合いだろうと思ってな」


「……まぁ」


 まぁ、うん、まぁ、とハーシュが歯切れ悪く顎を引くのを見て「もちろんお前が嫌だと言うなら断るが」と言えば、「い、いえいえ、嫌だとかそんなことは……」としかしそれも最後まで言い切れない様子で口をもごもごさせる。


「…………」


 なにか言いたげな、いや、思うところはあれど言いたくなさそうな、けれどもこのまま流してしまいたくないような、そんな彼女自身も困っているような様子で黙り込むハーシュ。


 以前はこの弟子のことを奔放で快活だと思っていたが、互いに告白して、婚約もして、そしてこうして一緒に暮らしていると存外臆病で、言いたいことを溜め込むところもあるのだとわかってきた。


 彼女はポジティブな言葉は条件反射のように迷わず口にするが、不安や怯えといったネガティブな気持ちは仕舞い込んでしまう癖がある。特に、こと私に対してはその傾向が強い。


「ハーシュ」


 名前を呼ぶと、気まずそうに視線を泳がせる。もちろん彼女自身も、気がかりがあるなら言うべきだと思ってはいるのだろう。


「でも、あの、あたしのわがままっていうか、言ってどうなるものでもないっていうか……」


「言ってくれ。私にとって、お前より優先するべきことなんてないんだ」


「……じゃ、終わったら言います」


「なに?」


 思わず今度は私が聞き返すと、ハーシュは慌ててぱたぱたと手を振った。


「や、あの、ほんとにただのわがままっていうか、気持ちの問題っていうか……それに、あたしだって後輩たちの面倒を見るのは嫌じゃないんです。だから断りたいって訳でもなくて」


 思うところはあれど、二人を招くこと自体に反対するほどではない、けれどモヤモヤする、と。


「だから今は気にしないでください。二人を預かって、そして二人が帰ったら、ちゃんとお話しますから」


「……無理は、してないか?」


 私のせいで何度も苦しい思いをさせてしまった。気持ちを通わせた今、言うべきことを躊躇うような関係でいたくはない。けれど、言いたくないことまで全て話せなんて強要したい訳でもなくて。


「少しだけ。でも、これは師匠のパートナーとして、あたし自身が今は言うべきじゃないと思うんです。だから本当に、今は気にしないでください。その……終わったら、全部言いますから。たくさん、甘やかしてください」


「……もちろん。終わったらと言わず、二人がいる間だって甘えてくれていいんだぞ」


「あは、それは楽しそうですね」


 ハーシュはそう言って笑う。無理をしていない、訳ではないだろうけれどハーシュ自身がそれを認めた上で、今は言わないと決めたのなら私はそれを尊重したい。……それに、彼女が無理を通すなら、その上から甘やかしてやればいいだけだし、な。



***



「ここがせんせーのおうち!」


「おじゃまします」


「あ、おじゃまします!」


 ほあー! と口を開けて駆け込んできたリーリに続いて、アルカが行儀よく頭を下げ、慌ててリーリがそれに習う。貴族のご令嬢で礼儀作法にも厳しく育っているのはリーリのはずなのだが、この二人はなんだかその辺りの印象がちぐはぐで見ていて面白い。


「危ないものは置いてないが、あんまり走り回らないでくれよ」


「ようこそ、二人ともー!」


 外套を脱ぐ私とすれ違うように奥から現れたハーシュが両手を広げて歓迎するとリーリとアルカがぽかんと口を開けて彼女を見上げた。


「ハーシュさま……」


「ハーシュ様だ……」


 呆気に取られた顔をする二人を見て「ん?」と首を傾げたハーシュがぐりんと私を振り向いてジトッとした目を向けてくるので私は慌てて首を横に振った。


「い、いやちゃんと言ったぞ、家にはお前がいるから一緒に生活することになるって」


「じゃあなんでこんなに驚かれてるんですか」


「いや、私に聞かれても……」


 きちんと事前にハーシュがいることを伝えたのは本当だ。婚約した、とまではさすがに言っていないが一緒に暮らしていることは説明してあったはずなのだが。


「ほんとだった」


「ほんとにいた」


 おい私の信用どうなってる。


「ほんものだ」


「本物だ」


「……師匠、この子たちに普段なにを言ってるんですか」


「真面目に教えてるだけなんだが……」


「どうせ自分は大したことない魔術師であたしとは格が違うとか言ってるんじゃないですか」


 思わずハーシュの顔からすっと視線をそらすと、そらした先でリーリとアルカがうんうんとしきりに頷いていた。やめてくれ。


「……全然信用されてないじゃないですか」


「講義にも突撃されたし模擬戦もしたのに同棲は信じてもらえないとは思わなかったんだが……」


「これに懲りたら日頃から自分を下げる言動は改めてくださいね」


「むぅ」


 思わず呻く私に「しかたないですねー」と笑うと、ハーシュは二人に向き直った。


「二人はイアリー先生のこと、好き?」


「うん、もちろん!」


「はい、先生はすごい先生です!」


「そうだよね、先生はすごいよね。だからだよ」


 二人が「なにがー?」と首を傾げるのににっこり微笑みかけて、ハーシュは。


「イアリー先生はすごい人で、あたしはそんな先生が大好きだから、一緒に暮らしてるんだよ」


「……ハーシュ」


 思わぬ角度からの援護射撃に思わず頬が緩む。すごい、とそう言ってくれることも嬉しい。でもそれ以上にたとえ子どもたちの前でも、はっきりと「好きだから」と、それを理由にしてくれるのが何より嬉しい。


「さ、それじゃみんなでごはん食べようか」


「はーい!」


「はい」


「ほら師匠、ぼーっと突っ立ってないで手伝ってくださいよぅ」


「ああ、わかった」



***



「ほら、流すから目を閉じてなさい」


「はーい!」


 リーリの髪に手桶から湯を流しかけてやると「ひゃああ」と喜んでいるのか悲鳴なのかわからない声が上がる。その様子を、先に湯船に浸かっているアルカがじーっと見つめていた。


 自宅で湯に浸かる、というのは習慣としては新しいここ数十年のもので、貴族でありお抱えの魔術師が家にいるだろうリーリはともかく、職人街育ちのアルカにとってはそれなりに珍しいものとして映っても不思議ではない。


 公衆浴場、大浴場という概念はこの国にも古くからあったが、それが自宅で実現したのは魔術の発見と魔術師の登場以降のことだ。それも結界や兵器といった軍事利用、炉心など産業への転用、そして学問としての体系化など一連の流れを経て、ようやく魔術が「特別なもの」ではなく学び、身につけられる「技術」と位置づけられてからの話。


 技術としては水や火、熱を操る系統の術に秀でた魔術師が湯を用意して、その後はこれまで通りに入浴するだけなのだがそうは言っても魔術師の絶対数はまだまだ少ないし、きちんと学んだ人間しかそれを扱えないとなれば、王侯貴族はともかく一般家庭ではなかなか家で毎日入浴というのは難しい。


「珍しいか? リーリの家でも見たんじゃないのか」


「それは、はい」


 おずおずと頷くアルカに、少し歯切れの悪さを感じて首を傾げる。


「リーリのおうちで見るのは、ぜんぶ、じゅんびされたおふろだったから」


「ああ」


 なるほど、と相槌を打ちながら私は指で書き慣れた回路をなぞって手桶に湯を満たしていく。ついでにアルカの浸かっている浴槽にも軽く熱の回路を書き込んで湯を注ぎ足す。


「こうして実際に風呂の用意をしているのは初めて見るか」


「はい」


 年の割にいつも大人しいアルカの黒くてまんまるの瞳が、心なしかキラキラと輝いている。好奇心の色、というやつだろうか。


 貴族お抱えの魔術師というのはもちろんいるが、彼らはどこかしら貴族よりは学者寄りの気風を持っている事が多い。私などその最たるものだが、ハーシュだって旅の手慰みに火の灯し方を訓練したり、あの学長ともなれば日々王都の結界に魔力を通しながらその効率的な運用について実験を繰り返し論文も書いている。その片手間に王国内の魔術師の代表として求められれば王城にも出向いて政治にも関わっている。


 貴族の側でも魔術師の有用性は認めているものの、やはりその歴史の浅さと気質の違い、歴史と伝統を重んじる貴族主義と、術式の強化、効率化、簡略化、或いは新しい術の発見にと日々進歩を求める魔術師の在り様とは互いに相反するものがある。


 そのためというだけが理由ではないが、貴族と魔術師は距離をおいて接することが多く、例えばお抱え魔術師というのも使用人というよりは研究者とパトロンの関係であることが多い。そのため湯沸かしといっても直接風呂の用意をするのではなく、風呂の用意をする使用人たちに声をかけられて、大量のお湯を用意したらそれでおしまい、とそんな具合になることがほとんどだ。


 使用人たちはその湯でもって湯浴みの用意を整え、準備万端整いましたとなってようやく主人を呼びに行く。そのため魔術師が湯を用意している事は知っていても、実際にその様子を目にする貴族は稀だといえる。


 最近では貴族と魔術師の価値観に齟齬があるのなら、貴族を魔術師にしてしまえばいい、と子供たちに魔術を学ばせる家も現れているがそれもここ十年程度のこと。リーリを学院に通わせていることからもわかるように彼女の家は比較的魔術師に理解はある方だろうが、将来の展望と実生活はまた別、ということだ。


「私のやり方は回路を使うそれだが、なに、通常の魔術であればこのくらい訳なく身につけられる範疇だ。君たちも、あと数年も学院で学べばいつでも好きな時に湯を浴びられるようになっているさ」


 そう言ってやるとふんす、と意気込むようにアルカが鼻から息を吐いて頷いた。うむ、やる気になってくれて何より。


 と、そこで私の膝の上で髪の泡を流し終えたリーリがぱたぱたと頭を振って髪から水滴を飛ばした。彼女のきれいなクリーム色の髪がぺちぺちと私の身体をはたく。……仮にも貴族のお嬢様が、こんな動物みたいな振る舞いでいいんだろうかと思わないでもない。


「…………」


「どうしたリーリ」


 妙な視線を感じて下を向くとリーリが振り返ってこちらを見ていた。いや私の顔ではなく、私の膝に座った彼女が振り向いてちょうど視線の高さにある――。


「おっきい」


「……ジロジロ見るな」


「いたっ」


 ぺしっとリーリの頭をはたく。子供に胸を見られたくらいで動揺するほど純情極まっているつもりはないが、だからってもちろん見られたい訳でもない。


 しかしリーリはさっきのようにきゃーっと楽しそうな悲鳴を上げるとそのまま私に飛びついてきた。


「うお、ちょっ、リーリ!?」


「ふふふ、やわらかくてきもちいいですー! お母さまみたいー!」


「それはお母様にやってもらいなさい!」


「だって、お母さまは「はしたないからやめなさい」っていって、さわらせてくれないから……」


「つまり外ではもっとやっちゃいけないって事だそれは!」


 うー、と不満の声を上げながら私の胸に挟まるようにぐりぐり顔を擦り付けてくるリーリに呆れながらも、その頭をうりうりと撫でてやる。


 ……まぁ、うん、こんなんでも私は教師だし、これまで教え子たちとはそれなりに距離を置いて接してきた。そんな私が、こうして教え子と裸の付き合いなんかしながら戯れている。私と魔術と、そして学院での教え子との関係がこんなものになるなんて、少し前まで想像もしなかったことだ。


「…………」


「アルカもおいでよ、せんせーやわらかいよー!」


「いや待て、私の身体はクッションの類じゃな――」


「わかった」


「アルカ!?」


 いつもはリーリの手綱を握ってくれているはずのアルカが、こんな時に限ってなぜかノリノリで両手をわきわきさせながらゆらりと湯船から立ち上がる。


「ま、待てお前ら、落ち着――ひぁっ! ちょ、どこ触って」


「ふふふ、せんせーいいにおーい!」


「馬鹿言え煙草の匂いだ、ろってひゃわっ、あ、アルカ?」


「せんせー、お尻も柔らかい……」


「お前そんなキャラじゃなかっ、んぁっ!」


「かみのけー! つやつやー!」


「お肌も、つやつや……」


「二人とも、あとで覚えて――ゃめ、こら‼」



***



「……ひどい目に遭った」


 あのマセガキどもめ、と湯船に沈んで毒づく。あれから人の身体で散々楽しんだリーリとアルカは、私が全てを諦めて身を任せたあたりでようやく満足したようで、あとは二人揃って年相応に湯船で潤沢なお湯を楽しんだあと、手に手を取って浴室を出ていった。


「仲がおよろしいことで。まったく」


 などとため息を漏らしてはみるものの、口の端がついついにやけるのは止められない。最近になってようやく自覚したのだが、どうも私は教え子に甘い。正直、可愛くて仕方ないのだ。叱るにも、どうにも強く出られない。


 彼女たちのすることに誤りがあれば先達として叱り、嗜めはするが、私を慕って戯れているのだとわかっていれば、ついついそのこそばゆさにこちらも言葉尻がすぼむというものだ。


 ともかく、これでやっと落ち着――。


「師匠」


「うぇい!?」


 湯船に顔の半分ほどまで沈んでぶくぶく泡を吐きながら目を閉じていたところに耳元で声をかけられて飛び上がった。跳ねた湯が、声の主の顔を濡らす。


「わぷ、もう、急に暴れないでくださいよ」


「誰のせいだ!」


「へへへ、あたしでーす」


 そう言ってぺろりと舌を出してみせるハーシュのあざとい様子に、こちらもわざとらしくため息の一つでもついてやろうか、と思ったあたりで彼女の裸身に吸い寄せられそうになって慌てて視線を逸らした。


「どうしました、なんで目を逸らすんです?」


「いや、だってお前、裸」


「何言ってるんですか、お風呂なんだから当たり前ですよ」


 師匠だって裸じゃないですか、と言われて慌てて私も湯船の中で自分の身体を腕で隠すように縮こまる。


「い、いいからそこをどけ! お前が入るなら私はもう出るから」


「ダメです」


「ちょっと待っ、なんだダメって」


「……あの子たちとは一緒に入れて、あたしとはお風呂入れないんですか?」


「は? いや、お前何を言って」


「大丈夫ですよ、ほら、ちょうどスペースも空いてますし」


 そう言ってニコッと笑ったハーシュが、私が縮こまったことで半分ほど空いた湯船に強引に乗り込んでくる。女同士とはいえ大の大人が二人。先程まで子供二人が入っても少し余裕のあった湯がざぱぁと大きく溢れる。


「……狭い」


「もっとぴったりくっつかなきゃですね?」


「そうじゃない」


「師匠? 顔が赤いですよ?」


「のぼせたんだ、私は出る」


「まって」


 立ち上がろうと浴槽のふちにかけた手を、上から掴まれる。


「……どうした」


「あたしとお風呂は、だめですか?」


「っ、そういう事じゃ」


「あの子たちとは、一緒に入れたんですよね?」


 ――あたしとは、してくれなかったのに。


 ハーシュがそう言葉にした訳じゃない。でも、そう言われた気がした。

 私がハーシュを弟子として招いていた頃は、私達は、少なくとも私にとってはただの師弟で、ハーシュはリーリやアルカよりも年上の少女だった。大人だったとは言わないが、互いに子供ではないし、風呂にまで一緒に入って面倒を見てやる必要なんて無かった。


 そもそも、泊りがけの時は一晩中構成中の回路と睨めっこしていることが多くて、風呂になんて入った覚えもない。


 付き合い始めてからも、それこそいい大人同士でわざわざ広くもない浴室に詰め込まれる必要もなかろうと、いやそもそもそれ以前に、誰かと一緒に湯に浸かるということ自体、私の考えの中には無かったのだ。


 だからいいとか悪いとか、誰とは入れて入れなくてとか、そんなことではなく、考えるまでもなくそうしていたことでしかない。それを改めて、こんなに真剣な目をした婚約者に問われたとき、何と答えるのが正解かなんて、私には知る由もない。


「……なぁ、私はまた、お前を傷つけているのか?」


 だから結局、こうして確かめるしか無い。


 ハーシュはふるふると首を横に振る。その意味することを言葉なく全て推し量れるほど私は鋭くなく、けれどそれをそのまま受け止められるほど鈍くもない。浮かせかけた腰をもう一度湯船に沈めて、向かい合うハーシュの身体をそっと引くと、素直に身を預けてきた。


「言ってくれ。不安は打ち明け合おうって、そういう約束だったろう?」


 彼女の濡れた髪に指を差し込んで、梳くように撫でる。ハーシュの震える手が私の背を不安そうに滑った。


「……違うんです。あたしが、勝手に焦ってるだけで」


「焦る?」


「師匠の裸はあたしのものだと思ってたのに、あの子たちには簡単に許して、それどころかあたしとはいつも別々なのに一緒にお風呂にも入って」


 そんなことで、と思わない訳じゃない。私にとってそれは恋人にするのと教え子にするので全く別の意味を持つ、別の行為でしか無くて、同じ秤にかけられるとは思いもしなかった。

 でも、私にとっては「そんなこと」でしかないそれが、世界で一番大切な人間を傷つけたのならやっぱりそれは私が浅はかだったのだろうと思う。


「すまない」


「違うんです! ほんと、師匠が悪いとか、そんなの全然思って無くて、あたしだって、子どもたちだけでお風呂に入れって言いたいわけじゃなくて、でも、あの子たちは師匠の教え子で、あたしも同じで、でもあの子達には許してあたしには許してないことがあるんだって、そう思ったら嫌で」


 馬鹿だなぁと思う。私の婚約者は、馬鹿で臆病でちょっと重くて、それがとても可愛い。


「ハーシュ」



「……はい」


「顔を見せてくれ」


「…………」


 抱き合い、互いに肩に預けていた顔を引いて見つめ合う。今にも泣き出しそうに震える彼女の両目を逃さないようにじっと見つめて、それからそっと、彼女の柔らかな唇に触れるだけのキスをする。


「キスは、お前にしかしない」


「師しょ――ひゃッ」


 ハーシュがなにか言うより先に、その可愛い胸に触れ、浴槽に沈んだ尻を撫でる。


「こうして触れるのも、お前だけだ」


「ちょっと、待って、ししょ」


「好きだ。愛してる。結婚して欲しい」


 ハーシュの身体をまさぐりながら、真っ赤になった彼女の耳に息を吹きかけるように愛を吹き込む。


「お前にしか言わない」


「わかっ、わかりまし、たからぁ、ちょっと、落ち着」


「ダメだ。寝床に入る前からお前のこんな姿を見たら我慢できなくなるとわかっていたから、今まで避けてきたのに。自分から飛び込んできたんだ、いまさら出来ないなんて言わせんぞ」


「へ? 師匠、何言っ、待って、待ってくださ、んんっ!?」


 ……そうなのだ。


 正直、一緒に暮らし始めてからこっち、私は我慢していたのだ。ハーシュが冗談めかして「一緒に入ります?」なんてウィンクを飛ばしてくるたびに、理性を総動員して耐えていたのだ。


 いい大人が二人して狭い浴室に入る必要はない? そんなの理性が本能を納得させるために並べた体のいい言い訳に決まっている。どうして一緒に入浴しなかったかなんてそんなの、襲わない自信が無かったから以外に理由などあるものか。


 愛しい彼女の無防備な裸身、濡れた髪、額から伝い落ちる雫、上気した頬。そんなもの、ひと目見てしまったら欲情するに決まっていた。


 ただでさえ毎晩のように抱いているのに到底我慢できる気がしない。互いにいい大人なのだから、せめて床に入るまでは自制しようと情けない決意でもって私はこれまで頑なに一緒に入浴することを拒んできたのだ。


「だめ、師匠、あの子たちに気づかれちゃ」


「情操教育だ」


「っ、そんな訳」


「うるさい。あの子たちのことより、今は私を見ていろ」


「そんなこと言っていいんですか!」


「教師でいようとした私を、ただの女に引き戻したのはお前だ」


「ゃ――待っ、師匠どこ触っ、そんなとこ」


「いい機会だ、いい加減、お前の全部が私のものだとちゃんと教え込まなくてはな?」


「ぁぁッ!」




「……わー、わー」


「あれが、おとなのこいびと」


「す、すごいねアルカ」


「すごい」


「…………ね、ねぇ、アルカ」


「ん?」


「ちょっと、だけ」


「……ん」


 ちゅ、と。浴室に比べればずっとずっと小さな、けれど同じ熱を秘めた小さな口づけが交わされたことに、浴室の色ボケ師弟が気づくことはなかった。



***



「……すまん」


 あれから数時間。


 互いにのぼせる寸前でフラフラになりながら浴室を出た私達は、リビングのソファで手をつないで寝息を立てていたリーリとアルカを客室に運んで寝かせ、自分たちの寝支度を整え、寝室で向かい合っていた。


 向かい合っていたというか、私が土下座していた。


「し、師匠の気持ちは伝わりましたし、あたしも嬉しくなかったわけじゃないですけど、だからってお風呂で、しかもあんな、あ、あんな、ところまで、あんな――〜〜〜〜っ!」


 思い出したのかようやく冷め始めていた顔の熱を再燃させてハーシュが顔を両手で覆う。私はただただ頭を低くするしか無い。


 いや、ほんと、自分があんなに獣だとは思わなかった。しかも今日はいつものようにハーシュに煽られた訳でもなく、何なら真面目な話をしていたハズだったのに。


「足腰立たなくなるまでするつもりは」


「それはもういいですから!」


「そ、そうだな、すまん」


 平身低頭。私に出来るのはそれだけである。


「……師匠」


「…………すまん」


「もう、それはいいですってば。顔上げてください。師匠の顔、見たいです」


 言われてゆっくりと顔をあげると、少し気まずそうに眉尻を下げたハーシュと視線がぶつかる。


「あたしの方こそ、ごめんなさい。こんな風に、あの子達に嫉妬なんかして、あたしと同じように家に泊めるんだーって思って、でも言えませんでした。そんなことを言って、師匠の先生としてのお仕事を邪魔したくなくて」


 二人を帰したら言う、と言っていたのがそのことだったのかと、遅ればせながら理解する。私の教え子、或いは特別に回路魔術について指導している以上はハーシュの妹弟子と言ってもいい二人に、私がハーシュにしたのと同じように目をかけているのに、嫉妬したのだと彼女は白状した。


「それなのに、結局我慢できなくてあんな風にお風呂に乗り込んじゃうとか……余裕なさすぎですね、あたし」


「…………」


 そんなことはない、と言うべきか迷って、結局私は口を閉じた。まぁ、確かに大人げない嫉妬なのは間違いない。あの子達の世話を焼くこととハーシュを可愛がることを同列に比べるなんて思いもよらなかったことではある。


「師匠は、ちゃんと約束してくれたのに」


 ちらりとハーシュが右の人差し指にはまった指輪を一瞥する。


 我が国では右の人差し指は身体の中で「生涯最も多く使う場所」として当人の分身と見做されている。その指に人から贈られた指輪をするということは「私の全てはあなたのもの」と身を預けることを意味し、二人で同じ指輪をはめることは婚約、婚姻、生涯の全てを共にすることを意味している。


 私達の指には互いに指輪がはまっている。教会での正式な婚儀こそまだだが、互いに指輪を身に着けている以上世間での扱いは既婚者のそれと変わらない。


 でも、そういうことではないのだろう。


「あたしは、師匠の中で、ずっと、ちゃんと特別でいたくて、それで」


 他の誰かと同じでは嫌だ。他の誰かにしたことを、自分にはしてくれないのは嫌だ。


 ハーシュの振る舞いは言ってみればそんな幼稚なワガママで、確かに普通なら恥じ入るべきことなのかもしれない。この国を救い、この世界を救った名実ともに世界一の魔術師がするような言動ではないと、人に知れればそう言われるようなことなのかもしれない。


「師匠の気持ちを信じてないとか、そうじゃないんです。ただ、ほんとにただの、あたしの、意地で、ただあたしが欲張りで」


 私がどう思うか、それすら関係ないのかもしれない。これはハーシュにとって彼女自身が、ハーシュという女が私の特別だと認められるかどうかの、意地でありプライドであり、独りよがりな自己満足の話。


「ハーシュ」


 彼女の震える告白に応えて名を呼ぶと、心細げに伏せられていた視線がこちらを向く。


「これから毎日、一緒に風呂に入ろう」


「……は?」


 ぽかんと口を開けたハーシュに、いや確かにアホなことを言っているとわかっているが、と気恥ずかしくなりつつもどうにか視線を逸らさずに続ける。


「私にとってお前はいつだって特別だ。そのことにお前自身が納得していなくてもそれは変わらない。だが、そうだからと言ってお前がいつまでも自分が私の特別だと認めてくれないのは私が寂しい」


「それは……ごめんなさい」


「だからハーシュ、特別なことをしよう」


「特別って」


「いい大人が二人して毎晩一緒に風呂に入るなんて、しないことだろう? けど、私達はそれをするんだ。ほら、まずひとつ、私にとってお前は特別になった」


 単純すぎて、愚直すぎて、いっそバカみたいな答え。それでも、そんな馬鹿げたことの積み重ねが、彼女の自信になればいいと思う。


「他には?」


「……ま、毎日、ぜんぶ、おなじものを食べたい」


「よし、朝晩は必ず一緒に、昼も毎日弁当だ。交代で作るのでいいな?」


「毎日、お揃いの服を着たい」


「学院では多少服の規定があるが……揃いのローブを新調するか」


「い、いつでも何処にいるか知りたい」


「ふむ、互いの指輪に追跡できるよう術を仕込んでおくか。それなら外さないだろう」


 普通なら重いと感じるのだろうか。いや、私だってこれがハーシュの頼みでなければ何を言ってるんだと一蹴しただろう。それを重いと感じないのが、それ自体が私にとっては特別の証なのだが、こういうのは言葉だけで納得できるものでもないだろう。


「他にはないのか?」


「…………」


 躊躇うように、ハーシュが口を小さく開けたり閉めたりする。ん、と促すと意を決したように息を吸って。


「い、いってらっしゃいとお帰りなさいのキス、したい」


「…………ぷっ」


 思わず吹き出すとハーシュが「わ、わらうなぁ!」と真っ赤になって悲鳴を上げた。


「いや、すまない、思いの外可愛いお願いだったのでな」


「だ、って師匠、いつまで経ってもあたしのこと、弟子みたいに扱うから……」


 そう言われてしまえば身に覚えが無い訳でもない。まぁ、私にとってこの子は恋人であり婚約者だが、始まりが師弟関係だったことは覆しようがないのだ。どうしても、振る舞いにその頃の調子が滲むことはある。


 けれど。


「それを言うならハーシュ。お前はいつまで私を師匠なんて遠回しに呼ぶんだ?」


 にまりと笑って言ってやると、ハーシュが「え」と固まった。


「確かに私達は師弟だが、今となっては生涯を共にするパートナーだ。いい加減、名前を呼んでくれてもいいんじゃないか?」


「……でも、師匠を師匠って呼べるのは、あたしだけだから」


 なるほど、それもまた彼女にとっての「特別」なわけだ。だが、これに関しては私も譲れない。


「確かに、私をそう呼ぶのはお前だけだがな、ハーシュ」


「そうですよ、だからあたしは」


「でも、私が呼んで欲しいんだ。お前に、私の名を」


「っ」


 既に赤かったハーシュの顔が、さらに赤くなる。


「私のことを名前で呼ぶ人間は、まぁ何人かいるが。私から呼んでくれと頼んだのはお前だけだ。これだって、特別なことんじゃないか?」


「〜〜〜っ。〜〜〜〜〜!!」


 言葉にならない悲鳴を上げたハーシュがそのままベッドに沈む。いつも私をからかって笑う彼女から一本取れたようで、こちらはずいぶん気分がいい。


 ベッドに倒れて顔を覆ってしまったハーシュに覆いかぶさり、顔を覆う手を剥ぎ取って押さえてやる。


「ハーシュ、なぁ呼んでくれ、ハーシュ」


「し、師匠……そんな、急に」


「師匠じゃない」


「……………………イアリー、さん」


「別に『さん』はいらないんだがな」


 いつもぐいぐい迫ってくるくせに、こうして向き合うと途端に可愛らしくなる彼女が愛おしくて、何度も唇を啄む。はじめは「や、ししょ、まって」と弱々しく抵抗していた彼女もすぐにおとなしくなり、蕩けた瞳で見返してきた。


「っは、イアリーさん……」


「今はそれで勘弁してやるか――ん」


 もう一度、キス。ようやく観念したように応えてくれる彼女の舌を味わって、私は彼女の寝衣に手をかけた。



***



 翌朝。


「……よし、それじゃ行くか。用意はいいな?」


「はーい」


「はい」


 互いに手をつないだリーリとアルカがそれぞれ空いている手を元気に挙げて返事をする。うちで預かっている以上、遅刻などさせる訳にもいかない。日によってはギリギリで学院に向かうこともある私だが、今日はかなり時間に余裕を見て家を出ることにした。


「あ、師匠ちょっと待ってください」


「ん?」


 ぱたぱたと玄関に飛び出してきたハーシュを振り返ると、その手には三人分の弁当。


「お昼ご飯です。ふたりの分も」


「ああ。ありがとう」


 昨夜の約束を思い出して少しくすぐったい思いをしつつ、ハーシュの手からありがたいお弁当を受け取る。私のものよりひとまわり小さな包みを受け取って「これがえいゆうべんとー……」「おとなのごはん……」となぜか弁当を凝視する二人に聞こえないよう少し声を落として、ハーシュに「一緒でいいのか?」と尋ねる。


 ハーシュは一瞬きょとんとしたあとで、質問の意味がわかったのかにっこりと微笑んだ。


「一品だけ、違うものを入れてますから」


 ぺろりといたずらっ子のように舌を出す。なるほど、それなら私とハーシュだけのお揃いだなとお互いに笑い合った。


「よし、行くぞ」


 二人を外へと促し、さて私も出ようかというところで、忘れ物に気づいて振り返る。


「師匠、どうしました?」


「いやなに、少し忘れ物をな」


 答えながら、首をかしげるハーシュにすっと歩み寄る。なんだろう、と不思議そうに私を見返していたハーシュの目が「あ」と何かに気づいて丸くなり、そしてわずかに私から視線を逸らした。


「……ん」


 小さく彼女の鼻から漏れた息をすくい取るようにゆっくりと唇を離して、再会した頃よりもかなり長くなった彼女の髪を撫でる。


「行ってくる、ハーシュ」


「いってらっしゃい……い、イアリー」


 不慣れな様子で頬を赤らめながら私を呼んでくれた可愛い婚約者にもう一度キスしたい欲求をぐっと堪えて「ああ」とだけ返すと、私はようやく玄関から外へと踏み出した。


「待たせたな、行こうか」


「…………」


「…………」


「どうした?」


 なぜかほんのり顔を赤くして私を見上げる教え子二人に首を傾げると、ハッと我に返ったらしい二人が「なんでもない!」「です!」とぶんぶん首を横に振る。気にはなったが、子供たちには子供たちの事情もあるだろうとそのまま歩き出す。


 うむ、今日もほどよく頑張ろう。そして帰ったら、さっきのキスの続きをしよう。

 不純なやる気が満ちるのを感じつつ、私はいつになく充実した気持ちで学院へ足を向けた。




「な、なんかすごいね、おとなって」


「すごかった……やっぱりせんせーのおうちに来てよかった」


「うん、お父様たちにたくさんおねがいしてよかったー」


「わたしたちも、まけてられないね」


「……アルカ」


「リーリ」


 …………ちぅ。

 小さなキスは、今までよりちょっぴり深く、情熱的に。

 古今東西、恋の熱とは伝染うつりやすいものなのであった。

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底辺魔術師な私ですが、英雄になった愛弟子に迫られて陥落しそうです… soldum @soldum

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