聖女の断章
時間つぶし(前)
ばたん!
わざと音を立てて扉を閉めると、もう中の話し声も、物音も聞こえなくなった。
「……はー……」
なんだかひどく疲れていた。閉じた扉に体を預けてその場に座り込みそうになるのを、無理やり足を前に出して耐える。寄りかかるものがなくなれば、自分の足で立つしかなくなる。
「……私の、おおばかやろー、ですわ」
他に行くあてがあるわけでもなく、ふらふらと教会に足を向けながら、気の抜けた声で自分を罵倒した。
こうなることは目に見えていた。わかりきっていた。だってあの子が求めていたのはいつだってただ一人。それは私ではなくて、その席に座るべき人間が辞退したからという理由でほんの一瞬、そこに座ることを許されていたに過ぎない。
そんなことは初めからわかっていて、それでもその席を自分のものにするために動いたつもりだった。似合わないこともしたし、言ったかもしれない。
でも、そんなの何の役にも立ちはしなかった。
結局、全てはあるべき場所に収まるのだとどこかの誰かが決めているのだ。そんな理由で、普段は持ち合わせない神への信心を得てしまいそうだ。或いは信仰の薄い聖女に下された罰が、この失恋だったのだろうか。
「……失恋。そう、これがそうなんですのね」
あの子自身の口から、何か言われた訳ではない。でもこれはもう私の負けだろうと思う。もしもまだ勝算があったなら、きっとあの子は私を追いかけてきて、引き止めたはずだ。たとえあの二人の結末がどんなものであろうと、その先に私の入り込む余地はない。
――恋なんて愚か者のすることだと思っていた。
誰もが恋に裏切られて泣いていた。好きになんてならなければよかったと、私に抱かれながら嘯いた。そんな言葉ばかりを耳にして、私は知りもしない恋を疎ましく思うようになった。
でもあの子だけは違っていた。彼女の恋は恋をするためでも、愛されるためでもなく、彼女自身のためと、焦がれた相手のために捧げられるもので。たとえ恋破れたとて、恋した自分を否定するものではなく。
彼女のそれはいわば信念に似ていて。
そんな風に恋をする少女を、美しいと思った。
それが恋だなんて気づかないまま落ちて、気づいた時にはその水底から彼女を見上げていた。
「やっぱり、愚かですのね」
恋なんて愚か者のすることだ。報われないと知っていても、私はあの子に恋をしたのだから。
失恋して、私に泣きついて、誰かの代わりに私に抱かれた女の子たちを思い出す。今ならその気持がわかる気がした。
誰でもいいから、抱かれたい。抱いていたい。大切なものが手に入らないその空白を、ありあわせの甘さと優しさでもいいから埋めてしまいたい。そんな気持ちが、私の胸にわだかまる。
「聖女の名が泣きますわ、なんて今更ですけれど」
でも、誰でもいいなんて気持ちは初めてだった。理性的なつもりでいて、どうやら今夜の私は酷く自棄気味らしい。
ハーシュのところにイアリーを連れて行ったのは、最後の賭けだった。
煙草を渡して、ハーシュが私を選ぶと言ってくれたなら。そのことを知りながらも、イアリーがお行儀よく外で待つような、その程度の気持しか無いなら、ハーシュは私が幸せにする。そのつもりだった。
でも、もしもハーシュが私の提案を拒んだら、イアリーが私との口約束にかかずらうことなくハーシュを奪いに来たのなら、その時は身を引こうと決めていた。
勝算なんて、はじめからほとんど無かったけれど、それでもどちらの場合でも、そうすると決めていた。……そして私は、その通りにした。自分で決めていた通り、正しいと思うことをした、のに。
「どうして、こんなに悲しいのでしょうね」
決まっていたことなのに。予想できたことなのに。気を抜いたら道端にしゃがみ込んでしまいそうなほど、いまの私は弱りきっている。
失恋なんて、したことがなかったから。その痛みをどこか軽視していた。恋を愚かなものと断じたのと同じ。知りもしないで、甘く見ていたツケがこの胸の痛みか。
「恋も、失恋も、貴女に教わったんですのね、ハーシュ」
そのことだけは、満足だ。私の初恋は、あの子に始まって、そしてあの子によって幕を閉じる。よかった。痛いけれど、苦しいけれど、私はちゃんと恋をしていたと確信できたから。
それだけは、ほんとうによかった。
「……あ」
ふと顔をあげると、既に教会の前に到着していた。しかし、灯りは最低限。当たり前だがこんな夜更けには教会だって誰でもどうぞと門戸を開けているわけがない。一応、表の入り口も相手はいるし夜番の誰かはいるはずだが、それは夜にしか礼拝や懺悔に訪れられない訳ありの民衆に対して開かれているのであり、恋人の家に抜け出していた聖職者が帰るためではない。
裏口も同じこと。開けてはもらえるだろうが、小言とセットなのは間違いない。いつもなら平然と聞き流してしまうそれも、今は耐えられる気がしなかった。
……朝まで、どこかで時間を潰しませんと。
お決まりの朝の礼拝の時間に何食わぬ顔で戻っていれば私はお咎め無し。いつの間にかあの教会と私との間で定着したルールだ。私が「救世の聖女」である以上、教会は私を追い出せず、おいそれと地位を剥奪することも、罰することもできない。さりとて禁を破り好き放題しているのを見つければ口やかましく言わざるを得ない。
結局、私が日頃から繰り返している夜間の外出や女遊びは「見つからない限り不問」とされている。お互いに何食わぬ顔で教会と聖女双方の評判を守るのが、一番穏便だという結論に至ったのだろう。尤も私の方は、聖女の看板にそれほどこだわりがある訳ではないのだけれど……。
ともかく、深夜をまわろうかという時間に教会に戻っても面倒が増えるだけだ。教会へ向かっていた身体をくるりと反転させて、酒と女の匂いにつられて歓楽街に足を向ける。
教会の次にアテにするのが夜の街なんて、ほんと聖女の名が泣きますわねと自嘲してみたところで、そんなことを気にするほど私の神経が細かったら、初めからこんな夜遊びなんてしていない。
ほどなく、教会の冷めた空気よりもよほど肌に馴染む、甘くじめっとした夜の街の気配が漂ってくる。
夜通し店を開けている酒場は夜の王都の治安維持にも一役買っている。人目がないよりはある方がいいに決まっているし、巡回の兵士たちの眠気を飛ばす役割も担っていた。まぁ、一方で勤務中の飲酒や女遊びで隊を追われる騎士も後を絶たないそうだけど。
そういう酒場は大抵宿も兼ねていて、店に属していない夜の女や日銭を稼ぐ目的で身体を売る専業ではない者たちが酒場の前で客引きしているのも珍しいことではない。
「あら、聖女さまじゃない」
「最近ご無沙汰だったわね。遊びに来たの? 溜まってるんじゃない?」
そういう連中とは大抵顔なじみなので、彼女たちも私に気安く声をかけてくる。彼女たちにしてみても、身分を大っぴらにしていて、金払いがよくて、酔った男連中を相手にするよりもずっと楽しい夜が過ごせるからと私の評判は上々。
あちこちからかかる軽薄な挨拶に「ごめんなさい、今日はそういう気分じゃありませんの」と薄く笑って足を進めた。
誰でもいいから抱かれたいとは言ったけれど、私は彼女たちの名も顔もきちんと覚えていた。覚えてしまっていた、というべきか。誰でもいい誰かではなく、顔も名も、なんならこうして夜の街に立つ理由も知っている相手を、誰かの代わりに抱くのは気が咎めたし、何より誰なのかを知っている相手ではハーシュの代わりにはどうしても思えなかった。
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