ひとつもない
「……ん」
左腕に心地よい重さを感じて目を覚ました。そちらへ顔を向ければ愛しい女が私の腕に頭を預けて寝息を立てている。言い様のない幸福感を覚えて自然と頬が緩んだ。こんな風に頬が緩んで勝手に笑みが浮かぶなんていつ以来だろう。彼女と出会う以前にまで遡れば、もう思い出せないほどだ。
私は、笑うという当たり前のことさえ、彼女なしでは出来なくなっていたのだと思い知る。
そんな大事な彼女の隣を離れようなんて、どれほど無謀だったのだろう。こうして彼女の温もりを感じて目覚めると、それを永遠に失うなんて耐えられそうになかった。
「ぅ、ん……ししょー……ふへ」
「……私以外に見せられない顔だぞ」
だらしない笑顔で私を呼ぶハーシュに、見られているわけでもないのに気恥ずかしくてついからかうような言葉が口をつく。……いかんな、こういう態度を改めないと愛想を尽かされる。彼女の隣で眠る喜びを知ってしまった今となっては死活問題だ。
「…………んく」
無防備な寝顔に、思わず唾を飲んだ。いい、のか? いいよな、寝てるんだし、その、一応私達は恋人、になったわけだし、これくらい、バレなきゃいいよな?
ハーシュが枕代わりにしている左腕をなるべく動かさないようにしながらゆっくりと身体を反転させて、半ばハーシュに覆いかぶさるような体勢を取る。互いに何も身に着けていないから、それだけでも彼女と直接触れる箇所が増えて心臓の音が一段高くなった。
キス、するだけだ。大丈夫、昨夜は、というか明け方までそれ以上のこともしていたのだから、キスくらい――。
「師匠……すきです、よ……」
「…………」
思わず空いている右手で顔を覆った。
いかん、昨夜からの妙なテンションを引きずっっているんだ。頭の中がピンク色にボケているに違いない。ただでさえ私は彼女の許しに甘えてここにいるのに。それなのに寝ている間にキスなんて――。
「なんだ、してくれないんですか?」
「……いつから起きてた」
「師匠にしか見せない顔なので大丈夫ですよ」
「だいぶ前からだなよくわかった」
というかその時点で起きてたってことはさっきの「好きですよ」はわざとか。油断ならない。
「キス、したくないんですか?」
「眠ってる間にするのは悪いと思っただけだ」
「真面目ですねぇ師匠は」
「……勘弁してくれ。こう見えてお前に嫌われないように必死なんだ」
「じゃあ、こんどキスを躊躇ったら嫌いになります」
「ごほっ」
噎せた。
「おまっ、何を」
「あたしが師匠のキスを嫌がるわけないって、わかってもらわないといけませんからね」
「そんなこと――っ」
わかってる、と勢い任せに言いかけて言葉に詰まる。わかっていたら躊躇うはずがない、それはもちろんだがそれ以上に。
私は今、きっと何もかもがわかっていない。どうしたらハーシュにもっと好きになってもらえるのか、何が彼女を不安がらせ、遠ざけてしまうのか。それがわからなくてハーシュに何を言うにも何をするにも躊躇ってしまう。
「ほら、わかってない」
「……仕方ないだろう。私はお前のために身を引くつもりだったのに、その結果がこれだ。お前を傷つけて、アレスにも手をかけてもらって、それでやっとお前が欲しいと言えただけなんだ。この先どうすればお前とずっといられるのか、何もわかっちゃいない」
「ふ、ふふ、あはは」
堪えきれなかったという風にハーシュが笑うものだから、私は思わず顔をしかめる。なんだ、情けないのはわかってるぞ。
「ごめんなさ、ふ、くく、あははは! だって、師匠がかわいいんですもん!」
「ですもん、じゃない」
「じゃあ白状しますけど、あたしも寝てる師匠にキスしようとして、やめたんですよ」
「なんだと?」
「あの模擬戦のあと、医務室で、意識のない師匠にキスできませんでした」
そう言うハーシュの表情は明るかったが、後悔が無い訳ではないようだった。
「……いえ、こうして師匠の方から来てくれたから、どうでもよくなったんですけどね。でも、師匠と離れ離れの時はずっと後悔してましたよ。キスできなかったことっていうか……もっとちゃんと、好きって言いたかった。何度だって師匠にさわって、キスして、気持ちを伝えたかったって思いました」
ハーシュが私を好きだと言う言葉。それを嘘だと思ったことはない。けれど全てを信じたことも、思えばなかったかも知れない。
彼女の口にする「好き」は憧れの延長にあるものだと思っていた。それがどんなに恋に似た形をしていたとしても、憧れの対象が他に現れれば変わっていくものだという思いがなかったとは言えない。
今は私を好きだとしても。そんな風に思わなかったわけではなかった。
「師匠は、寝てるときにあたしにキスされたら、嫌ですか?」
「嫌なわけあるか。……その、嬉しいに決まってる」
好きな女に唇を求められて、起きてるとか寝てるとかそんな些細なことを気にできるほど私に余裕なんてある訳がない。ハーシュが私に望むだけでなく、彼女の方から求めてくれるとしたら嬉しいに決まってる。
「あたしも同じですよ。師匠にされて、嫌なことなんてひとつもないです」
「……これもか」
半分起こしていた身体をくるりともう半転させて覆いかぶさると、ハーシュの可愛らしい唇に深々と口づける。ハーシュは抵抗しない。どころか、もっと、っとでも言うように私の頭と背に腕を回してしがみついてくる。
ならばと舌で唇を割ってやれば、待ってましたとばかりにあちらの舌に出迎えられた。
「ん、ちゅ」
「ぁむ、っる、ぇろ……っは」
「っあ、ふふ、もっとしてもいいですよ」
「……学院にいけなくなる」
「あたしはそれでもいいんですけど」
ハーシュは拒まない。私のキスを嬉しそうに受け入れて、むしろもっともっととその表情と吐息で求めてくる。私の欲望に任せた口づけでさえ、この上ない喜びだというように恍惚として唇で押し返してくる。
求めてもいいと、そう言われている気がして脳が沸騰した。
「あたしはもう、師匠のものですから。遠慮とか、そんなの不要です。……あたしが欲しかったら、欲しいって言ってくれれば、それでいいんですよ」
からかうような上目遣いにも馬鹿みたいに顔が熱くなる。くそ、可愛すぎる。
「難しい、ですか?」
眉尻を下げた不安げな顔に、私も思わず困り顔で見返してしまう。
「……ああ、難しいな。お前が欲しくない時なんて無いんだ。四六時中求めてしまう」
「…………」
「す、すまない、やはり何とか堪えるように」
「いいですよ」
「なんだと」
「だってあたしはもう師匠のものですからね」
くすくすと嬉しそうに笑うハーシュに見惚れる。この子は、私がこの子を欲しいと言うだけでこんなに嬉しそうに笑うのか。それを見て、私はこんなにも満たされるのか。
「好きだ、ハーシュ」
「あたしも好きですよ、師匠」
昨夜から互いに繰り返し続けた月並みな言葉の交換。それがこの上ない幸福だなんて、予想できるはずがなかった。好きだと口にすればするほど、彼女の唇がその言葉をなぞるほど、私の中の好きが膨らみ、溢れる。
「学院に、行く気がなくなる」
「あたしはいいんですけど……師匠が困りますね。起きましょうか」
ハーシュは、ちゅっと私の唇を啄むと「さーさ、朝ですよ」と下から私を押し上げて、二人揃ってベッドの上に身を起こした。
「…………」
「……どこ見てるんですか」
「すまん」
二人とも裸なんだ。見るなと言う方が無理があった。
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