たとえどんなに身勝手な我儘でも
「し、しょ」
「……まだ、入室は許可していませんけれど?」
「すみませんね。でも、こればかりは」
「まぁ、あれで踏み込んでこなければそのままハーシュは貰っていくつもりでしたけれどね」
取り決め、というほどでもないが「話が終わったらお呼びしますわ」というアレスの言葉を無視して室内に踏み込んだ私をアレスがじろりとにらみつける。ただ、その目にはいつも私を見つめる時の攻撃的な色は宿っていない。
「あ、アレス? どうして、師匠がここに」
「本人にお聞きくださいな。私は――っ、今日はお暇しますわね」
「え、ちょっアレス」
引き留めようとしたハーシュの手をするりと躱して、アレスはさっさと家を出ていこうとする。すれ違いざま、彼女は私の横でこちらを見ないまま足を止めた。
「まぁ、ギリギリで度胸を見せたことは評価してあげますね」
「帰れ、って言わないんですか?」
「ここはハーシュの家ですわ。私に、貴女を追い返す権利はありませんもの」
「……いいんですか?」
「勘違いしないで頂きたいのですけれど」
そこでようやく、アレスはちらりとこちらに一瞥をくれた。
「私、ハーシュには幸せになって欲しいんですの」
それだけ言うと、次の私の言葉を待つことなくアレスはさっさと出て行った。一瞬、それも何かの嫌がらせかと勘繰ったが、彼女の最後の言葉は疑うべきではない気がした。それなら、いまは彼女がくれたチャンスを活かすことだけ考えればいい。
「ハーシュ」
名前を呼ぶと、びくりと彼女の肩が跳ねた。怯えるような、窺うような、そしてかすかな期待の籠もった視線が、私を見返す。
久しぶりに見る彼女の姿に愛しさがこみ上げたけれど、果たして私にはそんな気持ちを抱くことが許されているだろうか。全ては、彼女が決めることだ。
部屋に入る前から、二人の会話は聞こえていた。いや、聞こえていたなんて責任を投げ捨てる言い方はよくないか。私は事前にアレスの了承を得て、アレス自身を起点とした盗聴の術を使わせてもらっていた。
だから、ハーシュの言葉も、気持ちも、聞いている。
彼女は確かに、私を好きだと、まだその気持ちがあると言ってくれた。でも、それを捨てようともしたのだ。そんな彼女の前に、こうして私が姿を見せるのは果たして彼女にとって良いことなのかわからない。
でも、わからなくても、たとえこれが、彼女のためにならないとしても。
それでも言わなければならない。そのために、私はここに来たのだ。
「え、と……どうして、ここに」
「アレスに頼んだ。煙草と引き換えにな」
煙草を渡す代わりに私がアレスに出した条件。それは、私に一度だけハーシュと話をさせて欲しいということ。その条件を聞いたアレスはわずかに眉をひそめたあと「……それだけですの?」と私に確かめた。
そんなことでいいのか、というようにも聞こえる物言いだけれど、私には「いまさらそれだけで何とかなると思っているのか」と、そう聞かれている気がした。
『その先は、私がするべきことですよ』
私のその答えが、果たして彼女の澱んだ目にどう映ったのか。彼女は「わかりましたわ」とそれだけ言って、そのまますぐに、私を伴ってハーシュの家を訪れたのだ。
「あの、あたし」
「アレスと、付き合ってると聞いた」
「っ」
ハーシュが思わず、といった風に視線を逸らす。ああいけない、これでは責めているみたいだ。一度は遠ざけることを選んだ私に、この子を責める権利はない。
「すまない、お前を責めるつもりはないんだ。そうじゃない、そうじゃなくて、その」
会わなくてはいけない。会って、話をしなければいけない。その気持だけでここまで来たけれど、いざ二人きりでこうして対面すると、何をどう言葉にすればいいのかわからない。
でも、ハーシュは震えている。当たり前だろう。あんな風に拒絶した私と対面しているのだから。きっと彼女をひどく傷つけてしまった私が、いまさら戻ってきて何を言うのか。彼女にとって恐ろしくないはずがない。
だとしたら、私はまず何を言えばいい? 何よりもいま、最初に言うべきことは――。
「大丈夫だ、ハーシュ」
「……ぇ」
「大丈夫、私はもう、お前を傷つけない」
数歩、ハーシュに歩み寄る。彼女は反射的に後ずさりそうになったところを踏み止まってくれた。抱きしめたい気持ちを押し殺して、彼女の柔らかな髪にそっと触れる。優しく。それだけを心がけて、ふわふわと彼女の髪と遊ぶように撫でた。
「――悪かった」
私の口から出たのは謝罪だった。
「私は、お前のためを思えばこそ、距離を置くべきだと思った。その考えは今も変わっていない」
そうだ。私と一緒にいることが、この先彼女が生涯に残す功績に利することはないだろう。弟子の成功を望む師としては、やはり私は彼女と一緒にいてはいけない。そう思う気持ちは今もある。
「あたし、あたしは師匠といられれば――」
「けどな」
ハーシュの言葉を、敢えて遮った。私が言わなくてはいけないことだ。
「無理だったんだ」
「へ?」
「無理だったんだよ。お前を突き放したまま生きていくなんて、私にできるはずがなかったんだ」
そうだ。できるはずがなかった。大人ぶって、彼女の導き手を気取って、いざ彼女と離れ離れになってみれば、まるで身体の半分を失くしたような気分だった。アレスからハーシュの話を聞くたび、二人の関係に吐くほど嫉妬するような、そんな人間なのだ、私は。
「だから、謝らせてくれハーシュ。お前のためと突き放しておきながら、私はその信念も貫けないような人間だ。お前に尊敬されるような人間では、ないのかもしれない」
「っ、そんなの、そんなことないです! あたし、師匠のこと、今だって変わらない! 尊敬してるし、憧れてるし、それに、」
「――愛してるんだ」
ハーシュが続けようとした言葉は、何だったろうか。聞きたいような気もするし、聞く前に言えてよかったような気もする。
「それは――それはあたしが、弟子だからですか? 弟子として、愛してるってことですか」
「弟子としても愛している。お前が私の弟子というだけで、私は人生の価値を得た。でも、それだけじゃない。それだけじゃ、私が我慢できないんだ」
我慢できない。耐えられない。結局そんな弱さでしか、私は動けなかった。呆れられ、軽蔑されても仕方ない。そう覚悟してきたし、それでも言いたかった。
「愛してる、ハーシュ。この世界の何よりも、他の誰よりも、お前を愛してる」
「し、しょ……」
「だから、だから――っ」
私のものに、なってはくれないか。
最後に告げるべき一言が、喉の奥につかえて出てこない。舌に乗らず、歯が上手く噛み合わず、言葉にならない。
この期に及んで、私はそれを口にすることに怯えている。
拒絶されたら? この子には確かにその権利がある。私は一度彼女から踏み込んでくれた場所を退いておきながら、戻って欲しいとねだろうとしている。私の都合で彼女を傷つけておきながら、自分の心が弱ったからと彼女に縋りつこうとしている。
師としてのプライド、なんて話ではなく、人として、それを言葉にする資格があるのだろうか。もし拒絶された時、私は果たして自分を保っていられるだろうか。
ここまで来たのに。これを言うために来たはずなのに、臆病な私は躊躇ってしまう。
本当に、これでいいのか。
躊躇い、俯く私の頬に、そっとハーシュの手が触れる。そして――。
「……突き飛ばしても、いいですから」
「なに? なんのこ――んぅっ!?」
「――――」
キス、だ。
二度と触れられないと覚悟した、甘く、柔らかく、熱い唇。
ほしかった、誰にも渡したくなかった、彼女の感触に、頭が真っ白になる。自分が何を考えて、何を言おうとして、何を躊躇っていたのか。その全てが一瞬で頭から吹き飛んで、全神経が愛しい人の唇に集中してしまう。
ああ、これだ、と。
ずっとずっと探していたものをようやく見つけたと、唇から伝わる感触が私の全身に歓喜を伝播させていく。痺れるような快感が背筋を駆け抜けて、視界が明滅した気さえする。
「……んっ」
ハーシュがかすかに漏らした声すらももったいなくて、形もない、触れるはずもない声さえも唇で掬い上げようとするかのように彼女の唇に何度も吸い付く。
何度も何度も唇を啄んでようやく顔を離した時、私はほとんど酩酊していた。
ぼんやりと滲んだ視界に、愛しい弟子の顔が映る。私と同じように潤んだ瞳で荒い息をついた彼女と、じっと見つめ合う。視界の靄が晴れるにつれて、ふつりと意識が浮かび上がり――私は思わず飛び退いていた。
「す、すまん! こんな、急にキスなんて、するつもりじゃ」
告白の言葉もきちんと口にできていないのに。受け入れてもらえると決まっていたわけでもないのに。ハーシュの唇に触れた途端、それまで考えていた決意とか覚悟とか、葛藤とか不安とか、そんなものが全て吹き飛んで、彼女の唇を貪ることしか考えられなくなってしまった。
「どうして師匠が謝るんですか?」
「だ、だから、急にキスなんてして」
「違いますよ師匠。今のは、あたしが師匠にキスしたんです」
ぱちっと悪戯なウインクを飛ばすハーシュに思わず、
「――――っ、ぁむ」
思わず、もう一度キスをした。
「……っは、師匠、いきなり」
「今のは、私からだ」
「……師匠って、へたれなのに負けず嫌いなんですね」
「私も今知ったところだ」
「このキスは、約束したからですか?」
いつかの問いを、ハーシュがもう一度私に向ける。こうまでお膳立てされて、それでようやく言えるなんて、そんな自分が情けない。そう思う一方で、彼女と私には、きっとこの距離感が相応しいのだと喜んでいる私がいる。
「――――約束だと? なんのことだ?」
そう言って、もう一度彼女に口づける。
初めからそうだった。約束だから仕方なくしたキスなんて、一度もなかった。私はいつだって、目の前の彼女が愛しくて、だからキスをしていた。私自身が、たった今知ったことだけれど。
「ん、ふむ、んぅ、ちゅ」
「ぁ、む、っふ、ん、んん」
吐息を、唾液を、熱を、唇を通して交換する。私とハーシュの中身が、繋いだ唇を通して混じり合っていく。何度も触れたはずの唇が、かつてないほど熱く私を溶かす。
「――っは、ぁ……れ?」
「ぉ、っと」
限界までこらえて息を吸おうと口を離した途端、ハーシュの膝が崩れた。慌てて腰に手を添えて支えてやると、ハーシュは蕩けた表情で甘えるように身を寄せてくる。
「師匠、なんか、キス……よすぎて、立ってられません」
「……そうか」
「寝室は、隣ですよ」
「知ってる」
並んで眠ったことだってある。それはまだ、彼女をただの可愛い弟子だとしか思っていなかった頃の私がしたことだけれど。今度は、きっと眠るだけじゃ済まない。
「っしょ、っと」
ハーシュの背と脚を支えて、横抱きに抱えあげると、彼女が頬を擦り寄せてくる。
「運んでやる。おとなしくしておけ」
「運ぶだけですか?」
「お前がそれだけでいいと言うなら我慢する」
「我慢なんて、しなくていいです」
「……寝かせてやれないかもしれないぞ」
「いいですよ、明日はお休みですから」
「私は仕事なんだが」
「じゃあ、頑張って起きなきゃですね」
そう言って耳を甘噛みされて、私の理性が持つはずがなかった。私はハーシュを抱いたまま、無言で寝室に向かう。
「ん、師匠の匂い……」
力の抜けたハーシュの身体をベッドに横たえると、彼女は私の首に抱きついたまますんすんと鼻を鳴らし、にへっとしまらない笑みを浮かべる。
「最近は、本数減らしたんだがな」
「減らさなくていいですよ。この匂いに包まれてる方が、師匠に抱かれてる感じがして、嬉しいですから」
「……馬鹿弟子め」
私が覆いかぶさると、再び彼女の方からキスされた。甘えた唇に、精一杯の甘いキスを返す。
「ししょー」
「何だ?」
呂律の怪しい舌で呼ばれて、束の間顔を上げる。
「あたしのこと、ちゃんとししょーのものにしてくださいね」
「……誰にも渡さないさ。もう二度と、あんな気分はごめんだ」
それがたとえどんなに身勝手な我儘でも。たとえ彼女の可能性を狭め、いつか彼女が救う誰かを犠牲にしたとしても。それでも、もう手放さない。絶対に。
彼女の嬌声を夜空にさえも聞かすまいと、私は一晩中、その唇を塞いでいた。
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