たった一本

「そ、れは」


「ええ、ええハーシュ。きっと私は酷いことを言っているのでしょうね。人の気持ちなんて、そんなに簡単に変えられるものではありませんもの。けれどだからこそ、私はお願いしますわ。気持ちが変わるのを待たないでください。貴女の意思で、私を選んでください」


 アレスは微笑んで、煙草を持った手をこちらに差し出す。いつもの聖女の微笑に、あたしは全身が、それこそ指の先まで強張っているのを実感する。


 彼女は自分の言葉を「酷い」と言ったけれど、本当に酷いのはあたしだ。アレスを受け入れるでもなく、拒むでもなく、態度を曖昧にしたままずるずるここまで来て、その上アレスにこうして汚れ役をさせてしまっている。


 わかっている。あたしが悪い。あたしはもう、師匠に振られていて、あたしだけが立ち止まっている。アレスは沈み込んだあたしをすくい上げようとしてくれていて、師匠も新しい弟子を迎えて、そうやってみんなが前を向いている。そんな二人の背中を見ながら、あたしだけがあの日から、同じ場所に蹲っている。


 わかっている、のに。


「…………」


 何も、答えられない。指の一本も、動かせない。


 欲しいものがある。眼の前に。でも、そのために捨てなくちゃいけないものがある。あたしにとって大切なもの。いまここにいるあたしを形作るもの。


 この手にあるのは焦がれた気持ちだけで、本当に欲しいものは手に入らないと知っていて、それでもなお手放したくないというのは実りのない我儘でしかない。


 でも、それを捨てるということは、この恋を終わらせるということ。他でもない、アレスが言ったことだ。恋を終わらせるのは自分。あたしと師匠の恋は、たとえ報われなくてもあたしが愚図っている間は終わらない。まだ、あの人に恋をしていられる。


「お願いです、ハーシュ。次の恋を始めてください。今すぐ私を好きになってほしいとは言いませんわ。でも、いつまでも振り返るばかりでいるのはやめましょう? 私が、その手伝いをしますから」


 アレスの声は掠れている。

 微笑む唇が小さく震えている。


 そうだ。彼女だってあたしにこれを言うためにどれだけ覚悟をしたのか、どれだけ勇気を出してくれたのか。


 恋人になってほしいと彼女は言った。もちろん、それはアレスの望みだろう。でも、好きにならなくてもいいとも言った。どちらもきっと、彼女の本心。立ち止まって、蹲っているあたしの手を引こうとしてくれている。あたしはまだ、何も返せていないのに。


 ――いい加減、あたしも前に進まなくちゃいけない。


「……わかっ、た」


「ハーシュ!」


 アレスの表情が華やぐ。


 正直、師匠への気持ちを捨てられるなんて思えない。でも、いつまでもとどまり続ける訳にはいかない。

 あたしはあの人の弟子だ。あの立派で、つよくて、かっこよくて。弱くて、可愛くて、ちょっとヘタレたところがあって。そんな自分を知りながら、必死に自分の足で立とうとしていた、そんな師匠の弟子なのだ。


 そのあたしが、いつまでも足を止めている訳にはいかないじゃないか。


「…………」


 そっと、アレスの手から一本の煙草をつまみ上げる。火をつけていないのだから、嗅ぎ慣れたあの匂いはまだしない。それなのに、煙草を手にしただけでもうあの匂いが鼻先をかすめた気がした。


 これが最後。師匠を想って味わう、たった一本。


 火をつけてしまえば、終わりが始まる。だけどもう、躊躇ってはいられない。

 前に進むと決めたのだから。アレスが支えてくれる、手を引いてくれる。そして何より、師匠の弟子というあたしに残った最後のあの人との繋がりに恥じないために。


「すー、はぁぁぁ……」


 長く息を吐いて、震える指を落ち着かせる。


 終わらせたくなんてない。でも、きっとこれを終わらせなくちゃ、あたしは何者にもなれないままだ。だから、これで終わりにする。

 ぼっ、と指先に火を灯す。あたしの憧れは、今はもう簡単に形にできる。本当に欲しかったものは、指先をかすめて、取り落としてしまったのに。


「――大好きですよ、師匠」


 そしてあたしは、指先から煙草に、火を――。



「待て! ……ぁ、少しでいい。待って、くれないか」



 ――火をつけて、ないのに。

 ふわりと、愛しいあの匂いがした。

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