それで終わり
「ただいま」
「……おかえりアレス。遅かったね」
「少し寄り道してましたの」
ただいま、おかえり。
いつからこの挨拶をアレスと交わすようになったのか、ハッキリとは覚えていない。何度も泊まりにくるうちに、アレスは自然とその挨拶を玄関で口にするようになり、そしてあたしも敢えてその言葉を逸らそうとはしなかった。
はじめは多分、反射的に答えただけだったのだろう。でも、あたしが「おかえり」と言う度に、むふーと満足気に鼻をふくらませて笑うアレスのらしくないはしゃぎっぷりを見せられると、言わないという選択肢は無くなっていった。
師匠との別れを引きずっているあたしが未だ胸に蹲っている一方で、そんな淀んだ感情を溶かすようにしてあたしの中に滑り込んでくるアレスの存在は大きかった。
師匠を想いながらアレスといる。師匠への気持ちを裏切っているという後ろめたさと、アレスの気持ちを利用しているという後ろめたさ。気持ちをぼかし言葉を濁して、立場を曖昧にし続けることは簡単だったけれど、心にのしかかる重さは二倍にも四倍にも膨れ上がっている気がした。
ハッキリと、あたしは立場を言葉にして、明確にするべきだ。
夜毎、それどころか毎時毎分毎秒のように、あたしは二人の顔を浮かべては思うのに、いざその片割れであるアレスを前にすると、肯定も否定も言葉にならず喉の奥につかえたまま。
アレスのことは好きだけれど、師匠に抱く気持ちとはまったく別種の感情だという自覚はある。あたしはアレスに恋をしていない。友人として、仲間として愛してはいても、師匠に対して抱くような甘さも切なさも、そこにはまるで伴わない。
……自分が、こんなにずるい人間だとは知らなかった。
あたしはアレスの存在に逃げている。いや、逃げてすらいないのかな。自分では何も出来ずに蹲るばかりで、逃げることも甘えることも、自分の意志では何もできていない。……魔賢者が聞いて呆れる。自分のこと一つさえ、自分で選べないのに。
「ハーシュ? どうかしました?」
「……ううん」
何も言えない。何を言えばいいんだろう。貴女には感謝しているけれど好きにはなれないよって? そんなの、言っても何もならない。あたしはアレスを失って、アレスはきっと他の誰かを見つける。それが怖い? わからない。何かを失うこと自体が怖いのか、師匠に続いてアレスを失うのが怖いのか。だめだ、なにもわからないのにどんどん臆病になっていく。
「――ん」
「ん……なに、どうしたのアレス」
ぼんやりしていたあたしに、アレスがするりと滑り込むようにキスをする。すっかり慣れてしまった自分に薄ら寒いものを感じながらも、それを拒むほどの強い理由があたしには無い。
「いえ、ハーシュは今日も可愛いですね」
「……ありがとう?」
「どういたしまして。さ、今日はそんなハーシュにプレゼントですわ」
「プレゼント?」
突然なんだろうと思っていると、アレスが懐から手の平サイズの包みを取り出した。簡易なありふれた包みだったけれど、なんだか、見覚えがあるような――。
既視感の正体を掴みきる前に、アレス自身が手に載せた包みをあっさりと開いてしまう。その中身を見て、背筋が凍りついた。
「そ、れは」
「ハーシュ、貴女がずっと探していたものですわ」
にっこりと、いつものようにアレスは笑う。けれどその目だけは、あたしを追い詰めるような鋭さを帯びていて。
アレスがなぜ、師匠の煙草を持っているのか。なぜ、それをあたしに見せるのか。意図するところが全てわかったわけではない。むしろ何もわかっていないし、ひどく混乱している。
ただそれでも、あたしの中に最も強く沸き起こったのは「やっぱり」という、納得とも諦観とも言える思いだった。アレスだって、今のままでいいとは思っていないんだ。あたしは今日、いま、この場で、答えを出さなくちゃいけないんだ。そのことだけは、ハッキリと理解した。
「……やっぱり、気づいてたんだね」
「愛しい貴女のことですもの」
アレスはやはり微笑んで肯定する。あたしが毎晩、彼女の隣を離れて煙草を吸っていたこと。その行為が何を意味し、何を求めたものだったのかも、彼女は見抜いている。
「遅くなったのは、そのせい?」
「ええ。イアリー先生を直接訪ねて、譲っていただきましたの。恋人が欲しがっているから、と言ったら快く分けてくれましたわ」
「……そう」
何を、言えばいいのだろうか。もらってきてくれてありがとう? さすがにそれがおかしい事くらいあたしにだってわかる。でも、アレス自身もまた、決定的なことは何も口にしていない。それなのに、あたしが言うの? ごめんなさい、今でも師匠が好きです、って?
問われたわけでもなくそれを口にする権利が、あたしにあるの?
「これが、欲しかったのでしょう?」
アレスに言われて、改めて彼女の手元に目を落とす。見慣れた、何の変哲もない、無地の紙にくるまれた細い煙草。あの人と最初に出会ったときから、彼女はずっとこれを咥えていた。
師匠がつまらなそうな顔でこの小さな煙草に火を灯したとき、あたしはあの人の存在にとぷんと沈んだのだ。師匠はそれを魔術への憧れだと言うだろうし、あたしもはじめはそう思っていた。でも、それは半分だけ。
あたしはあの日、師匠が目の前で煙草に火を灯すその姿に、恋をしたんだ。
だからあたしは必死に学んだ。好きな人の目に、少しでも特別に映りたかった。バカ弟子め、って笑ってくしゃくしゃ頭を撫でてもらえるのが、あたしだけの特権であることがたまらなく嬉しくて、その席を誰にも渡さないために、彼女の一番優秀な教え子でいようと努めた。
師匠が煙草を吸うのが、それを眺めるのが好きだった。あの人は愛煙家なのに変に律儀だから、講義室や小さな教え子たちの前では煙草を控える。あたしの前で、気負わずだらしなくソファーにもたれながら、ぶつぶつと口の中では詠唱を組み立てながら、ほとんど無意識に煙をくゆらせる。隣でそれを眺めているあたしの存在が、師匠にとって当たり前に受け入れられたみたいで嬉しかった。
『……どうした?』
あたしの視線に気づいて、目をしばたかせた師匠にそう言われるたび「なんでもないです」って答えながら、心臓を必死で落ち着けた。そんな風にあたしがいっぱいいっぱいなのを知る由もなく、あの人は煙をこちらに向けないようわざわざ灰皿に預けて、空いた口で微笑むのだ。変な弟子だな、って笑って、何もしてないのに嬉しそうに撫でてくれる。
「……ずっと、それを探してた」
アレスの手にある煙草。それは確かにこのひと月、あたしが探し求めたものだ。
あの日の匂い。あの部屋の匂い。
師匠との大切な記憶にはいつも、この煙草の匂いが一緒だった。
もう一度だけでいいからと、その匂いを求め続けた。大好きな人がいつも纏っていた匂い。香水みたいに、好きで身につけているんじゃなくて、彼女の怠惰が染み込んだみたいな匂いが「らしいな」と思わせてくれた。
欲しい。そう思う。師匠をこの手に抱いて、そしてあの人の腕に抱き返される、あの匂いに包まれる幸福がもう訪れないのなら、せめて思い出の匂いくらい、あたしのものにしてしまいたい。
でも、無邪気にそれを手にするのは、怖くて。
「アレス。どうして、それを持ってきたの?」
「言いましたでしょう。愛しい恋人の捜し物を、プレゼントしたいのですわ」
「……嘘じゃないから性質が悪いよね。でも、それだけじゃない。そうでしょ」
私の言葉に、アレスは誤魔化すでもなくくすりと笑って肩をすくめた。
「もちろん、これを渡す代わりに一つだけお願いがありますわ」
「なにかな」
「これを吸ったら、それで終わり。イアリー先生とのことは過去にして、私とほんとうの恋人になってくださいな」
微笑んだまま、今度こそ、その両の瞳にさえも深い笑みを湛えて、アレスは言った。
――あたしに、師匠への想いを捨てて欲しい、と。
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