手遅れでもいい

「…………」


「…………」


 ソファに座ったアレスと向き合って、互いに沈黙のまま視線を合わせない。……いや、互いにというには視線を逸らしているのは私だけな気がするけれど。むしろアレスの側からは突き刺さるような視線をずっと感じている。


 リーリとアルカは「せいじょさまだ……!」と目を輝かせていたが、聞き分けのいい子たちなので「今日はここまで」と言うとそわそわちらちらとこちらを窺いながらも帰っていった。


 戸口で少し心配そうに私を見ていたので、まぁあんなに二人の前で情けないところを見せたのだから仕方ないよなと思いつつ「大丈夫だ」と言ったら左右からぎゅっと両手を握られて「げんきだして」「ください」と言われた。どうやら私は才能には恵まれなかったが、教え子にはとても恵まれているらしい。


「教え子にあまり心配をかけるものではありませんわよ。よろしければ私がお悩みをお聞きしましょうか? これでも教会に所属を持つ聖職者ですのよ」


「遠慮しておきます」


 私が何に気を揉んでいるのかなんてわかっているだろうに、アレスはニコニコと微笑んで白々しい言葉を吐く。悪意というほどの棘は感じないけれど、ある種の威圧ではあるのだろうなと身を硬くした。


 わざわざそんな会話の仕掛け方をしてくるのだから、ハーシュに関する用件なのは間違いない。


「それで、聖女さまが何の用ですか。いまさら私から話せることなんて何もありませんよ。酒場じゃあるまいし、まさか偶然ノックした扉の先に私がいた、なんて言いませんよね」


「いやですわ、そんな見え透いた嘘をつくような女だと思われていたなんて心外です」


 そんなニコニコして言われても胡散臭さしか感じない。


「そんな風に身構えなくとも大丈夫ですよ、私は先生のお考えを探りますけれど、私の考えは何でもお答えしますから、どうぞ気になったことは何でもお聞きくださいな」


「……先生?」


「ええ、ハーシュから評判は聞いていますし、こちらの学長も貴女の専門研究を認めておいでとか。立場ある方ですもの、そうお呼びするのはおかしなことではありませんでしょう?」


「……それは、二人が私を買いかぶっているだけですよ。個人的な師弟関係もありますから、贔屓目もあってのことでしょう」


 ハーシュの帰国以来口に馴染む程度には繰り返した言葉を返すと、慇懃な微笑を浮かべていたアレスがくるりと表情を変えた。いや、表情が抜け落ちた、と言うべきだろうか。


「本気で仰っていますの?」


「どういう意味です?」


 身震いするほど冷たい声に、鈍いフリで聞き返す。年長者としてのプライド、なんてものはなく、ただ私よりあの子のそばにいるだろう眼の前の女に臆したことを私自身が認めたくなかった。


「己が力を過剰に誇示しようとしないことは、ええ、時には美徳でしょうとも。けれど貴女を認め、信頼する者の言葉をそんな風にいい加減に否定するのが謙遜だというなら、それは彼女たちへの侮辱ですわよ」


「…………」


「ああ、キツイ言葉を使ってしまいましたね。恥ずかしながら私は、恋人を侮辱されて黙っていられるほど聖人として完成されていませんの」


「っ、ふ、ぅ」


 瞬間的にこみ上げてきた吐き気を無理やり飲み込んだ。


 恋人。眼前の女は確かにハーシュをそう呼んだ。そうすると宣言して、その通りにした。あの酒場と同じく、実際に見たわけでもないのに二人が熱いキスを交わす姿が脳裏をちらつく。


「良いものですね、恋人になるというのは。三年間の旅の間、並んで眠ったことなどいくらでもありましたのに、その中では知ることがなかったたくさんの顔が見られるのです」


 表情の消えていた顔に、色が戻る。部屋を訪れた最初の言葉の棘など、本当にただの棘でしかなかったのだと思わせるほどに毒々しい、嗜虐の笑み。自らの勝利を誇示し敗者を嘲笑する圧倒的優位の者だけが浮かべるその笑みが、私に胃の内容物を吐き出させようとする。


「本当に、飽きませんわ。口づける時の、身体に触れる時の甘い匂いも。視線を逸らしながら隠しきれず赤くなる顔も。限界を迎えて私にしがみついてくる、あの幼さにも似た表情と震えだって――」


「ッ、く。そ、れが――」


「はい?」


 こてりと白々しく首を傾げるアレスを、伝い落ちる汗も拭えず必死に睨み返した。


「それが、ここを訪ねてきた、本題ではない、でしょう。ご用件は?」


「……これは失礼いたしました」


 先程までのどす黒い笑顔を一瞬で霧散させ、へらりと柔らかな笑みを貼り付けたアレスを私はじっとりと冷たい汗をかきながらもなんとか見返した。せめてこの場では、彼女に負けたくない。何が勝ちで何が負けかなんて知る由もなかったが、いま彼女の顔から視線を逸らすのは私にとっては「負け」だと思った。


「すこし、お聞きしたいことがございまして」


「なんでしょうか」


「ハーシュから聞いているのですが、先生は煙草を愛用されているとか」


「……それが、何か?」


 酒もかっくらう聖女なので仮に煙草も嗜むと言われても今更驚きはしないが、それでも私が煙草を吸うことと何の関係があるのかわからない。


「銘柄を教えていただけませんか?」


「銘柄?」


「はい、どこの商会が扱う、何という銘柄で、どのような味と匂いなのか、見た目はどのようなものか。教えていただけませんか?」


「それを聞いて、どうするつもりですか」


「わかりません」


「……は?」


 なんでも答える、と言ったその口で、そのままの微笑で平然と知らぬ存ぜぬと宣う聖女に思わずぽかんと口が開いた。


「誤魔化しているつもりはありません、本当に私自身、それをどうするつもりなのかわからないのですわ」


「だったら、どうして」


「知らなくてはいけないと思いましたからね。あの子がずっと、何を探しているのかを」


「……それじゃ意味がわかりませんよ」


「ええ、本当に」


 何の答えにもなっていない、と私が言えば他人事のように頷いてため息をこぼす。それはたぶん、本当に彼女の本心だった。アレス自身も、自分の行動の意味が全て分かっているわけじゃない。それでも、彼女は動いている。何よりもハーシュのために、ハーシュと二人で歩く未来のために。


 全てを諦めるところから始めた私とは、何もかもが違い過ぎる。

 それが、きっと私が彼女に負けた理由なのだ。


「あいにくですが、銘柄は教えられませんよ」


「理由を聞いてもよろしいかしら?」


「簡単ですよ、私の煙草は自作ですから」


 言いながら席を立ち、机の引き出しから常備している煙草を取り出して見せる。既成品のようにデザイン性がなく無地の紙で巻かれただけのそれを見て、アレスも私の言葉が嘘ではないと理解したらしい。


「中の葉を買っている店には、馴染みだからと無理を聞いてもらってますから、私の一存で詳しいことは話せません。ただ――」


 その先を、ふと思いついてしまった言葉を、口にするべきか否か迷う。


 言ったところでどうなる。なんになる、何も変わらないのではないか。そう思う一方で、まるで先程アレスが語ったように自分でもよくわからないままに「そうするべきだ」と背中を小突かれるような感覚がある。

 言っても仕方がない。何も変えられないかもしれない。全ては手遅れなのかも知れない。


 でも、私は一度もあの子に手を伸ばさなかった。あの子を、愛弟子という距離感に縛って、それ以上近づかれまいとするばかりで、私の方から手を伸ばしはしなかった。


 そのままで、何もしなかった自分を恨んで、生きていきたくはなかった。

 手遅れでもいい。それでも、あの子をもう一度抱きしめるために、何かをしたかった。


「ただ、なんでしょう?」


 私の手に乗った煙草からゆっくりと視線を上向けて私と目を合わせた聖女が微笑む。目だけが濁った、あの顔で笑う。


「――ひとつ条件を飲んで頂けるなら、この煙草、いくつかお譲りしますよ」


 だから私も、ニヤリと笑ってそう言った。

 ……いくぶん、引きつった笑みだっただろうけれど。

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