いいのだろうか

「せんせー?」


「……あ、ああすまない。どうした?」


 呼ばれていつの間にか俯けていた顔を上げると、心配そうにこちらを覗き込む二対の瞳とぶつかった。


「そんな顔をするな、なんでもないさ」


「でも」


「せんせー、しんぱいごとですか?」


 いつもは口数の少ないアルカからも気遣うような声をかけられてしまう。そんなに参っているように見えただろうか。いや、まあ実際に参っている自覚はある。あるが、教え子に心配されるようでは導き手としてはやってはいけない失敗だろう。


 このひと月、ハーシュとすれ違ったままの酷い精神状態でもなんとか教員としての仕事が出来ているのはこの二人との特別講義のおかげだ。ルーチンワークの講義だけだったら、私はもっと早く参っていただろう。


 二人を教えるこの講義が息抜きになっていればこそ、誤魔化し誤魔化しここまでやってきた訳だが、その息抜きも二人に気づかれるほどではいい加減に限界だ。ひと月よく持ったと思うべきか、それともどうせこうなるなら別の手を講じるべきだと思うべきなのだろうか。


 でも、正直歯を食いしばって時間が過ぎるのを待つ以外に方法が思い浮かばない。


 だってあの子を失った空白を、何が埋められるのかわからない。リーリとアルカには感謝している。けれど二人の存在は、決してハーシュの代わりになってはくれない。当たり前のことだけれど。


「悪かったな。さて、どこまで話したかな」


「えと、かいろのさいしょのところ、です」


「まずはぞくせい、だと」


「ああそうだったな。まずは属性だ。使いたい術と最も関連の深いものを書き込むこと。効率を求めるならより細かな種別、炎なら物質としての水とエネルギーとしての熱といった分解が必要になることもあるが、それはより複雑な術を使う場合だ。はじめのうちは考えなくていい」


 講義のためにわざわざ夜半までかけて用意した資料を見ながら講義を続ける。本来なら初歩の初歩、片手で実演をこなしながら片手で解説を書いて、頭の片隅でハーシュのことを考えるくらい余裕のはずなのだが、最近ではこうしてわざわざ読み上げようの原稿と解説資料を自分で作成しないとまともな講義にならない。


 そう、学生たちに講義に集中しろと言えないほどに私自身が目の前のことに集中できていなかった。


「それで……あー、なんだったか」


 手元の原稿に目を落としたが、そもそも原稿のどこまでを読んだかがわからなくなっている。


「…………すまん、何の話だったか」


「せんせー、えと、つかれてるならお休みしたほうが」


「むりは、よくないです」


「いやそれは……ああ、そうだな。すまない、これじゃ君たちの時間がもったいないな」


 思わず情けないため息が漏れる。二人は首を振って「そんなことは!」「せんせーが、しんぱいなので」と言ってくれる。ありがたい話だが、ハーシュが十も年下だというなら眼の前の二人は二十も下なのだ。教師として以前に大人として、こんな風に心配をかけるのはよくない。よくないが、これ以上意地を張るのも二人を困らせるだけだろう。


「……せんせー、なにがあったの?」


 勉強道具を一通り片付け終わったリーリが改まって聞いてくる。何も言わなかったが、アルカも同じく気遣わしげな視線を私に向けていた。


「なんでもない、とは言えないよな」


 さすがに、こうも参っている姿を見られて「なんでもない」はただの嘘だ。


「その、ハーシュとちょっとな」


「ハーシュさまと?」


「けんかした、ですか?」


「喧嘩……ではないかな。私が一方的に、あの子を遠ざけたんだ」


「とおざけ……えっと、んと、お引越し?」


 がんばって私の言葉を噛み砕いたらしいリーリの言葉に軽く笑う。その声すらからからに乾いていて、二人の不安を煽っただけだったかもしれない。


「そういう訳じゃないよ。ただ……そうだな、あの子はかっこいいし、二人も大好きだろう?」


「うん、ハーシュさまかっこいいよね!」


「そんけー、してます。だいせんぱいだから」


 そう言ってくれる二人に、こんな状況でもあの子の師として心が熱くなるのを感じる。私自身が認められるよりも、私はあの子が認められ、評価されることが嬉しいのだ。……いつかあの子自身が言っていたことだ。



『好きな人がバカにされてたら、認めさせてやりたいと思うのが普通でしょう!?』



 ハーシュは別に低く見られていた訳ではないが、あの子はきっと救世の英雄にならなくてもすごかったんだぞと声高に言いたい自分を今は自覚している。愛しくてたまらないあの子が、私のもとで育つ次の世代の憧れになるのは、それだけで嬉しいものだ。


「せんせーは、ハーシュさまのこと、きらい?」


「そんなことないさ。私はあの子が好きだよ……きっと、他の誰よりもね」


 なぜか、そんな言葉がするりと舌に乗った。いつもなら独り言ですら躊躇う言葉が二人の前だと滑らかにこぼれてしまう。


「私は、あの子のことを好きになりすぎたんだ」


「すきになりすぎた?」


「それってだめなんですか?」


「だめ、だったのかもしれんな。私にもわからないよ」


 ハーシュを好きになってしまったこと自体が間違いだったと言われれば、そうかもしれないと思ってしまう。どんなに私があの子を愛しく思ったとしても、出会いから、前提からして私達は師弟なのだ。あの子が英雄になるとしても、ならないとしても、私はきっと弟子であるあの子に惚れたことを素直には受け入れられないだろう。


 でも、師弟として出会わなければ私とあの子はこんな風に想い合うこともなかった。だから私は、あの子を好きになってはいけなかったのかもしれない。あの子が帰ってきた最初のキスを、誤魔化してしまうべきだったのか。あんな約束をしなければよかったのか。


 ……それは嫌だと思ってしまうのは、ここにいる私があの子に惚れた私だからなのか。


「どうして、だめなんですか?」


「あの子はすごくて、立派だろう? だから仲良くするのも、私よりもっとすごい人じゃないとな」


 自嘲を込めて笑うのが精一杯の大人の意地。そう思って苦味を誤魔化すように笑ってみせたのだが。


「そんなこと!」


「ないです!」


 二人揃って身を乗り出すように否定されて、思わずびくっとのけぞってしまった。


「せんせーは、すごいです!」


「みたことないじゅつをたくさん見せてくれたし、わたしたちに、こうやって教えてくれるし」


「君たち……」


 興奮気味な二人に褒められて、喜ぶよりも先に呆気にとられてしまう。


「ハーシュさまはすごくてかっこいいけど」


「わたしたち、ハーシュさまよりも、せんせーみたいになりたい!」


「わ、私みたいにだと? バカなこと言うんじゃない。私は別に、そんな大した魔術師じゃ」


「まじゅつだけじゃないです」


「ハーシュさまのまじゅつに、しょうめんからぶつかるのどきょーがすごいって、お父さまたちもせんせーのことほめてました!」


「せんせーのじゅぎょう、いつもわかりやすいです」


「そう! ほかのクラスの子たち、いつもわかんないって言ってたけど、うちのクラスはみんなそんなこと言わないもん」


 二人の口から次々飛び出す絶賛の言葉に頭がクラクラしそうだ。まさか、二人からそんな風に思われていたなんて考えもしなかった。


「だってせんせー、ハーシュさまのせんせーなんでしょ?」


「だからきっと、ハーシュさまがすごいのは、せんせーがすごいからなんだと、おもいます」


「……それは」


 違う、と言うには二人の瞳が真剣過ぎて。

 ……教え子の言葉を否定するのは、苦手だ。


 明らかな間違いなら、それはこういう理由で間違っているぞと指摘してやればいい。でもこれは主観の話だ。そして私からでも、ハーシュからでもない客観の話だ。


 即座に否定の言葉が出なかったから、なのだろうか。気づけば私はポツリと、ずっと秘めていた言葉をこぼしていた。


「私は――あの子を好きでもいいのか?」


「「うん」」


 いつもは交互に話す二人が、一緒に頷いた。お互い手を握って、顔を見合わせて「ねー」と頷き合っている。


 はじめて、私の気持ちを誰かに肯定された。


 ずっと、口にすることさえしなかったのだから当たり前だけれど。それでも、決して口にしてはいけないと思って、口にすれば否定されると思っていた。その痛みを怖がって、私は何も口にしなかった。ハーシュ本人に対してさえも。


 認めてしまえば、伝えてしまえば、それを否定する言葉を受け入れなくてはいけないと思ったから。


 でも今、私の弱音を聞いた二人が、私でも、ハーシュでもない誰かが、私の気持ちを認めてくれている。こんな情けない私でも、ハーシュを好きでいていいと言ってくれる。


 いいのだろうか、私が、あの子を好きでも。

 許されるだろうか、この気持を、言葉にして伝えても。


 たとえ私達がもう離れ離れになってしまうとしても。その未来は変えられなくても。

 あの子を抱きしめたい。キスしたい。


 ――好きだと言いたい。


 じわりと、わけも分からずに涙がにじむ。二人の教え子が目の前で慌てているのに、大丈夫だという一言も口にできず、私はごしごしと子供みたいに涙を拭って、息を震わすことしか出来ない。


 その時。



 こんこん。



 ノックの音に最初に顔を上げたのはリーリとアルカだった。


 二人に対応させる訳にはいかないので「だいじょうぶら」と上手く動かな口で全然大丈夫に聞こえない大丈夫を伝えてどうにか立ち上がる。人前に出られる顔じゃないが、そうも言ってられない。どうせ訪ねてくるのは学長だろうし、一言断って出直して貰お――。


「まぁ、ひどい顔ですわね」


「……は?」


 そこに立っていたのは、私からハーシュを奪うと宣言した聖女。

 あの酒場から逃げ出して以来顔を合わせることもなければ噂を聞くのも避けていた女。私の泣き顔にドン引きしている、聖女アレスだった。

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