全部試すまで

 ふと目が覚めた。


 ベッドの上でもぞりと身を起こすと、隣から「んん」と呻く声がしてあたしの寝ていたベッドがもぞりと動いた。月明かりの下で見る寝顔は、いつもの強かさは鳴りを潜めて、ひとつ年上のはずの彼女があたしよりも幼く見える。


「ぅん……んん」


 アレスがなにやら口をもそもそ動かしていたので、なんとなく指を突き出してみる、と。


「ぁむ」


「……えー」


「んちゅ、ちゅぷ、ちる」


「ちょ、アレス起きて……ないね」


「んふー」


 あたしの指をべちょべちょになるまでひとしきり舐めると、満足したように微笑んでまたくーくーと可愛い寝息を立て始めた。


「ほんと、子供みたい」


 アレスとこういう関係になって、もう月が一周しようとしている。毎日とは言わないけれど、彼女は二、三日に一度は家に遊びに来てそのまま泊まっていく。教会にいると何かと堅苦しくて、などとアレスは言い訳するけれど、彼女がそんなことを気にする性質じゃない事はよく知ってる。


 というか、家に来るたび嬉しそうに甘えてくるし、甘えてほしそうに見てくるので、教会の堅苦しさから逃げるなんてのは建前なのは十分わかっているつもりだ。


 ベッドでも、彼女はいつも熱の籠もった視線であたしを見下ろしては「愛していますわ」と言ってキスをしてくる。あたしは、それに何も答えない。というより、答える前にアレスのキスで口をふさがれている。


 初めて一緒に眠った夜、あたしはアレスの「愛してる」に答えようとして、うまく言葉が出なかった。アレスは一瞬だけさみしげに眉尻を下げて、でもすぐにいつもの笑みを取り繕った。それ以来、彼女はいつも一方的に愛を囁いては、あたしの返事を待たずに唇を塞ぐのだ。


 言わなければいけない、と思う。

 いい加減、はっきりさせなければって、ずっと思っている。


 あれから学院には顔を出していないしもちろん師匠にも会っていない。たかがひと月。けれどその間あたしはずっとアレスと一緒にいて、そして師匠の顔も見ていない。どういうことか、客観的に見れば明らかなはずだ。それなのに。


「…………」


 アレスを起こさないようにそっとベッドを降りると、あたしはキッチンの戸棚の中から、奥まった場所に押し込まれている包みを取り出して外に出た。


 玄関の扉を閉じて「ふう」と息がこぼれる。最近の夜毎の日課に、きっとアレスは気づいているだろうけれど。それでも彼女の寝顔をみながらそうする気にはなれなくて、こうしてこそこそと隠れるようにしている。


 ぼっと指先に火を灯す。

 あたしが最後に手にした術。あたしが、一番はじめに憧れて、ずっとずっと手を伸ばし続けた魔術が、いまあたしの指先に在る。師匠に望んであたしが貰った、最後の一つ。


 しばらくもやもやとまとまらない考えを泳がせて火を見つめて、けれど頭を振って言葉にならない思考を振り払った。


 指先の火を、キッチンから持ち出した包みの中身、そのひとつにつける。


「……ふー、けほっ」


 紙巻き煙草の美味しさは、まだよくわからない。毎晩一本。幾らか慣れてきたけれど、未だに最初のひと口は喉に突き刺さり、軽く噎せる。


「これも、違うや」


 師匠の匂いじゃなかった。当たり前だ。師匠の煙草は「安いから」って師匠が自分で巻いてる。だから煙草の知識が浅いあたしが記憶の中の師匠の匂いを頼りに買い漁った煙草のどれ一つとして、師匠の部屋で、師匠とのキスであたしを酔わせたあの匂いとは違っている。


 覚えている。苦くて、でも甘い匂い。記憶の中の匂いは薄れない。鮮明なまま、苦いまま、甘いまま、あたしの中にずっとある。いくらでも思い出せるのに、記憶の中から何度だって取り出せるのに、その匂いがもう一度あたしの鼻先を香らないことを思う度に煙草の煙とは別の何かで息が苦しくなる。


「こんなの、興味なかったのにな」


 あたしが煙草なんかに手を出すとは思わなかった。煙草を吸う師匠の姿も、師匠の口もとから昇る煙も好きだったけれど、自分が吸いたいなんて思いもしなかった。師匠がいつも笑って「身体に悪いぞ」なんて言うものだから、この人と一緒にいる限り吸うことはないだろうなって。


「間違ってなかったけどね」


 一緒にいる限りは、吸うことはなかった。


 でも離れたら、あの人の一番強い匂いはそこにしかなくて、それを求めるあたしが煙草に手を出すまで、それほど時間はかからなかった。


 あたしは、多分まだ、師匠が好きで。

 未来のことはわからないけれど、いまのあたしはこれからもずっと師匠が好きな気がしてる。


 それでも、あたしはアレスを受け入れるんだろうか。彼女の「好き」に「愛してる」にあたしもだよって答える日が来るんだろうか。それはどうして? 師匠を好きで、アレスも好きだから? それとも師匠だけを好きなのに、あたしを好きだと言うのがアレスだけだから?


 師匠が好きなあたしは、なんて言ってアレスを受け入れるんだろう。

 その時は、もう遠くない。そんな気がする。でも。


「王都の煙草、全部試すまで待ってくれるかな、アレス」


 待っていてほしいのかも、わからないけど。

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