4章

したいよ

「……むりかもしれない」


 ベッドの上で布団をかぶったままのあたしが絞り出した結論だった。


 師匠にフラれた。仕方ない。師匠と距離ができた。仕方ない。師匠に新しい弟子ができた。それも多分、仕方のないことで。


 だってあたしが好きで、告白して、フラれただけのこと。新しい弟子をとったことだって、師匠が教え導く人間として学院に籍を置く以上は遅かれ早かれ起きることだと納得もできる。


 でも、その全てがほとんど同時に降り掛かってくると。そうなってみると、あたしは自分を構成しているなにかの根幹が揺らいだような気がしてしまう。


 何のために生きてきたんだろう、っていうのはなんだか大げさすぎるけれど。

 何のために生きていけばいいんだろうとは、正直思っている。


 師匠と出会って、諦めかけていた魔術への憧れを守ってもらった。手にできないと思っていた、憧れで終わるだけだったはずのものをこの手に与えてもらった。


 そんな師匠のいる世界を守りたくて、そのためなら命を懸けても惜しくなくなった。実際に命を懸けても、何の後悔もなかった。それどころか、そのために生きてきたんだと思ったら自分の人生にも、こんな特異な魔力体質に生まれたことにも、ちゃんと意味があったと思えた。師匠を、あの強くて脆くて、かっこよくてかわいい人を、自分の手で守れたことにこの上ない喜びを覚えた。


 これまでを後悔しているわけじゃない。でも、これからが何も見えなくなったのも事実で。


 考えてみれば師匠と出会ってからのあたしの前にはいつも師匠の背中があって、それを追いかけて、守って、捕まえたくて、そのためにあたしは頑張ってきた。魔賢者として認められるハーシュという存在は師匠との出会いから生まれた。


 じゃあ、師匠と出会う前のあたしは?


「どんな風に生きてきたかなんて、忘れちゃったよー……ねぇ、師匠」


 布団を抱きしめても、そこにあるのはあたしの体温だけ。師匠に撫でてもらうあの不器用でちょっと乱暴な手付きから感じる熱のほうが、ずっと熱くてやわくて心地いいのに。


 ふかふかの布団からは、師匠の匂いはしない。この部屋に、師匠お気に入りの煙草の匂いはない。

 あのデートの日には、確かにあたしは師匠をこのベッドに押し倒したのに。もう、ここには残り香すらもありはしない。


 三年間会わなかった時だって寂しくても目を閉じて我慢できたのに、今は寂しさを自覚しただけで呼吸が止まるみたいに苦しくなる。


「あいたい」

 会いたい。


「さわって」

 触って。


「なでて」

 撫でて。


「きす」

 キス、してよ。



『約束だからな』



「……やだ」


 約束だからって、それを逃げ道にキスをせがんだのはあたしのはずだった。師匠が優しくて、律儀で、そしてきっと、少なからずあたしを大事に想ってくれてるって知ってたから。

 だから「約束」ならしてくれるって思って、それなのに。


「あんなの、やだよ」


 ひどく乾いたキス。愛も、熱も、なにもない。そこに何の感情もない、触れるだけの、冷たいキス。


 せめて師匠との幸せなキスを思い出したいのに、脳裏に浮かぶのも唇に蘇る感触も、ずっとずっと最後のキスばかり。


 幸せで、夢心地だったはずの師匠とのキスが、あのカサついて痛みしか無い記憶に塗り替えられてしまうのが怖くて、自分の唇を噛み切りたくなった。


「……やだよ。ちゃんとしてよ。前みたいに、ちゃんと」


 ベッドの上で丸くなって、きつくきつく目を閉じて、幸せだったいつかを想う。想おうとする。でもやっぱり蘇るのは、感情の抜け落ちた師匠の顔ばかりで、それがあの日最後に見た彼女の姿なのか、それとも師匠に捨てられ、忘れられてしまうことを恐れたあたし自身が生んだ幻なのか、もう区別がつかない。


「キス、したいよ」


「してあげましょうか?」


「ぶぉあ!?」


 思わずベッドの上で三回転ほどして無事落下した。いったぁ。じゃなくて。


「なに、な、ななな」


「はぁい」


 なんで、とやっと言葉に出来たあたしを見下ろしているのは、聖女のような笑みを浮かべた聖女。中身がまるで聖人めいていないので聖女のような、だけど世間からは間違いなく聖女と認識されている女。


「アレス、なんで、あたしの家、部屋に」


「いやですわ、ちゃんと鍵をかけませんと、いくら英雄といえど寝ている間は無防備なんですから」


「いやかけたよ鍵!」


「鍵開けの心得がある方が王都にもいらっしゃるんですのね」


 言いながらちらりと指先に光るものをのぞかせて、すぐに僧服の袖の奥へ引っ込めた。それでいいのか聖女。


「……何の用なの」


「あら冷たい。落ち込んでいるお友達を心配して様子を見に来たんですのよ。ほら、私聖女ですから」


「ここぞとばかりにアピールしなくていいから。いまさらだから。それで本当は何の用なの?」


 あたしがばっさり切り捨てると「嘘じゃありませんのに」と口をとがらせたアレスだったが、すぐにやれやれと肩をすくめると続けた。


「元気を出していただきたいのは本当ですよ。だからコレ、どうですか? ってお誘いですわ」


 そう言ってアレスが懐から取り出したのは、二枚の紙きれ。派手派手しい装飾された文字と何かの数字が印字されたそれは。


「……劇のチケット?」


「はい。なんでも旅芸人の一座が大きな会場で劇をするそうですの。教会の伝手でチケットを頂いたのですが、あいにく私以外のシスターたちはこういった娯楽は清貧を乱すとくそつまらな――んん、興味がないようでしたので、どなたかご一緒する方を探していたのです」


 いや、いまさら咳払いひとつで誤魔化されないからね?

 ……でも、劇か。気分転換には、なるかな。部屋に一人でこもっていても嫌なことばかりが思い出されてしまうし、一度何かに集中して気持ちを切り替えるべきかもしれない。


 行きたいかと言われたら正直そんな気分ではないと言うところだけれど、このままじゃいけないと思う自分が行くべきだとせっつく。


「……ん、いいよ。行こうか」


「やったっ。うふふ、ハーシュさんとデートですね?」


「はいはい、デートですよー」


 わざとらしく飛び跳ねて喜ぶアレスの存在が、今はありがたい。

 あたしは重たい体を起こして、準備のために立ち上がった。


「まぁ生着替え」


「いや出てってね!?」


 アレスは追い出した。

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